ここから本文です

【平成名勝負】大洋・レイノルズ“11打席”連続打席安打の大記録も本紙は休刊日

4/22(月) 8:01配信

スポーツ報知

 ◆1991(平成3年)8月4日(横浜)

 ヤクルト 100 000 000=1
 大  洋 202 000 30×=7
 (ヤ)●宮本、乱橋、郭、内山―古田
 (洋)〇斎藤、新浦、佐々木―秋元
 [本]レイノルズ8号2ラン(洋)

【写真】近藤昭仁さんはプロレス界の「歴史の証人」

 NPBに残る記録の中で、平成の時代に更新されたもの一つに連続打数安打(11)がある。平成3年に大洋(現DeNA)のR・J・レイノルズ、そして、平成15年に巨人・高橋由伸がマークした。ただし、レイノルズは四死球を挟まない“11打席”連続打席安打。価値としては、レイノルズの方が上、だろうか。

 彼が記録を達成したのは、平成3年8月4日、本拠・横浜でのヤクルト戦だった。8月1日の中日戦の第3打席で今中から左前安打を放ってから、6打席連続安打をマーク。前日(3日)のヤクルト戦では2回に川崎から左中間二塁打。3回には右前に運び、チームの連続打席安打記録だった中塚(当時、大洋2軍監督)の8打席連続安打にあっさりと並んだ。そして、6回には左前に。一気に球団記録を塗り替え、いよいよ日本記録が見えてきた。

 「(球団記録のことは)最初から知っていたよ」

 翌日にも記録更新となる―周囲の喧騒(けんそう)をよそに、試合後はクールに振り返った。この時点での記録は大映・坂本文次郎、ヤクルト・マニエル、阪神・掛布雅之(四球を挟む)の10打数連続。“あと1”については「チームが第一さ。仮に打てなくても、その後でタイムリーが出ればいいんだ」こう締めくくり、担当記者の囲み取材を終えた。

 1980年のドラフト2巡目でドジャースに入団し、83年にメジャー昇格。強肩、好打の外野手として鳴らした。また、メジャー通算で109盗塁をマークするなど、三拍子そろった好選手だった。パイレーツ時代の90年秋の日米野球で来日したが、フリーエージェントとなっていた彼はチームとの残留交渉がまとまらず、獲得に乗り出した大洋がパ軍や獲得意志を見せたカブスを上回る条件を提示し、現役大リーガーの大洋入団が電撃的に決まったのだった。

 閑話休題。“レーザービーム”はイチローの代名詞だが、彼がオリックス入りするのは、この年のドラフトで4位指名をされてから。イチローより以前に“レーザービーム”を披露していたのが、この年のレイノルズだった。ユニホームの着こなしが格好良かったが、移動時のスーツ姿もハリウッドスターのようで、「これがメジャーリーガーなんだ」と思ったものだ。

 さて、話を8月4日の横浜に戻す。ヤクルト先発は右の下手投げの宮本賢治。第1打席で簡単にレフト前ヒットを放って10打数連続安打の日本記録に並ぶと、3回の第2打席では右翼席に本塁打! あっさりと新記録を樹立してしまった。

 実は、この大記録を報じる報知新聞=すなわち、8月5日付の紙面は現在、残っていない。新聞休刊日だったのだ。一般紙と違い、現在、スポーツ各紙は休刊日も即売(駅、コンビニ発売)用の紙面を制作するが、当時はスポーツ6紙のうち、3紙ずつが交代で「完全休刊日」という体制を取っていた。報知新聞は8月の休刊日は発行しない順番だった。

 ただ、日本記録樹立の可能性がある以上、新聞は出なくても、担当記者として横浜球場に行った。早い時間での記録達成。記者席からも歓声が上がったが、発行日に当たっていた新聞社は大変だ。早版からこのニュースを大きく扱うことになり、歓声が静まるのと同時に、原稿用紙にペンを走らせることに(当時は、まだパソコンなどなかった時代)。すると、隣に座っていたある社の先輩記者から声が掛かった。

 「お前のところ、明日は休刊日だろ? 仕事ないよな? じゃあ、悪いけど手伝ってくれ。早版にこのニュースを突っ込まなきゃいけないんだけど、試合経過の原稿も必要で、そこまで手が回らないんだ」

 そう言うと、原稿用紙をポン、と投げられた。試合経過などはどこの新聞も似たようなもの。先輩記者の窮状を見かねて、手伝うことにした。パソコン全盛の現在では考えられないことだが、他社に記事を出稿したのは、後にも先にもこの時だけ。そういう意味でも、思い出に残る試合。ちなみに、某社先輩記者からの“代筆御礼”は、横浜球場関係者食堂の名物・ネギラーメンだった。(91年大洋担当、編集局次長・名取 広紀)

最終更新:4/23(火) 14:01
スポーツ報知

こんな記事も読まれています

あなたにおすすめの記事