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草刈正雄 充実の役者人生「母にその姿を見てほしかった」

4/23(火) 19:55配信

東スポWeb

 令和最初の母の日(5月12日)を前に、永遠の二枚目俳優・草刈正雄(66)が23日、都内で行われた「『母の日参り』パートナーシップ 2019年度 共同プレス発表会」に出席し、最愛の母・スエ子さん(享年77)との思い出を語った。

 母の日参りとは、先祖を大切にするという日本の良き文化を継承し、帰省した連休中、亡き母の墓前に手を合わせようという新たな供養の習慣だ。

 草刈は米兵の父が朝鮮戦争で戦死し、父を知らない母子家庭で育った。「うちは母子家庭で母とのつながりはかなり強かった。小学3~4年の時、お母さんに手紙を書きましょうという課題があり、僕は母のことをママと呼んでいたので、ママへと書いてクラスのみんなにからかわれた記憶がある。今回のことで、ふと母のことを思い出した」という。

「厳しい母だった。ちょっと悪いことをするとバットを持って追いかけられた。母が怖いので、おばあちゃんっ子だった。父親が米国人でね、差別的なことがあったんじゃないかと思う。僕は感じなかったので、これは想像だけど」と亡き母の苦労に思いをはせた。

 自宅は4畳半の間借り。スエ子さんはいくつも仕事を掛け持ちし、草刈を育てた。草刈も中学時代は新聞配達、高校は夜学に通いながら昼間に働いた。軟式野球に打ち込んで全国大会に出場する一方、練習後には16歳からスナックでバイトし、朝4時まで厨房で働いた。

「ある時、マスターに『正雄は見てくれがいいから、モデルになったら稼げるんじゃないか。俺がモデルクラブを紹介してやる』と言われ、博多じゃ食えないから東京に行くことになった。モデルなんて興味がなかったけど、お金につられた。昼間の仕事は手取りが1万9000円だったけど、東京のモデルクラブは5万円くれるってね」

 草刈の話は続く。「母は『あんたの好きにしていいよ』と言って送り出してくれたが、内心は寂しかったんじゃないかな。上京する際、母は仕事に行っており、友達に送り出してもらった。まだ食えるかどうか分からない1年半か2年後、思い切って母を小倉から呼び寄せた。最初は『東京に住むのはきついね』と言っていたが、実際はうれしかったのかな。それがよかったのか食えるようになった」という。

 スエ子さんは大の映画好きで、よく劇場に連れて行ってくれた。「特に東映の時代劇が好きだった。でも、後に俳優の仕事を頂くようになって、僕はバタ臭い顔をしているので、絶対に時代劇はできないだろうと思っていた。それが1回やったら、そんなに違和感がなくて、やはり日本人だよなとつくづく思った。NHKで『風と雲と虹と』(1976年)で忍者の役をやらせてもらい、全国区になった。それから時代劇のお話も頂けるようになった」と振り返る。

 スエ子さんは8年前に他界したが、草刈は「『真田丸』(2016年)を見せたかった。『あんたのこのセリフ回しは中村(萬屋)錦之介さんだね、丹波哲郎さんだね、と言われたかもしれない」と苦笑した。

 現在放映中の連続テレビ小説「なつぞら」は、スタッフの半分以上が真田丸と同じ。「気心が知れていて、毎日楽しんでいる」という。「もし願いがかなうなら、ここのところ俳優として作品に恵まれているので、母にその姿を見てほしかった」と語った。

最終更新:4/23(火) 20:01
東スポWeb

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