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レジェンド・藤沢和調教師が語る!平成-令和の競馬も強い馬が進化を呼ぶ

4/24(水) 6:05配信

スポーツ報知

 JRAのトップトレーナーとして、競馬界をリードしてきた藤沢和雄調教師(67)=美浦=。変化に対応して結果を出し続け、そして世界に挑み、輝かしい実績を積み上げた。ほぼ平成の時代と合致する調教師生活を振り返るとともに、まもなく幕を開ける令和の競馬界の未来へ。平成ラストのG1を前に、“レジェンド”が大いに語った。

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 時代が平成へ移る前年の昭和63年、藤沢和調教師は厩舎を開業した。グランプリホースは“芦毛の怪物”オグリキャップ。JRAの年間売得金が、初めて2兆円の大台に乗った。やがて空前の競馬ブームを迎える平成初期への道のりで、その本質も大きく変わったと指摘する。

 「開業当時は、重厚でタフな欧州の種牡馬の血の流れが残っていた。そこに入ってきたのが、アメリカの速い血統。その代表がサンデーサイレンス(※1)で、競走馬では私が管理したタイキシャトル(※2)がそうだった。完全なスピード競馬。欧州の血では対抗できなくなった」

 藤沢和師は、馬なり調教を積み重ねて仕上げるスタイルで、新たな風を吹き込んだ。「馬なりで大レースを勝てるほど競馬は甘くない」との批判もあったが、血統の質の変化に対応するためには、必要なことだった。

 「馬なりで、自分から走っていくような速い馬が増えた。重厚な馬と違い、ハードに追い切る必要がないんじゃないかと思うほど、世界的に血統が進化した。調教をそんなにしなくても、自分でどんどん体をつくる馬の血統が残っている。それを理解しなくてはいけない」

 新たな調教法は、馬と人間の関係性の変化とみることもできる。大きな影響を与えたものとして、ジャパンCを挙げた。

 「昭和(56年)の時代に創設されて、外国から調教師や厩務員がやってきた。馬の取り扱いには様々な方法があるということを学んだ若いホースマンがやり方を変え、平成で大きな実を結んだ。馬は家族、友達。彼、彼女と呼ぶようになり、鍛える、スパルタといった根性論から脱皮した。競馬の発展においてサンデーサイレンスの存在は大きいが、それ以上に海外のホースマンが、いろいろなことを教えてくれた」

 平成の名トレーナーも、3年後の2月末で定年となる。令和という新たな時代を迎えるにあたり、ブラッドスポーツとしての重みを改めて口にした。

 「サラブレッドは、昔の人が『こういう馬をつくりたい』と考えながら配合し続けてきた歴史の結晶。レイデオロでダービー(平成29年)を勝たせてもらったけれど、あれも、最後に自分がやらせてもらっただけ。強い馬が強いレースを見せることで、競馬は進化していく。人間は主役に置いていかれないように、代々続いていく“仕事”をすることが重要。残されるような血統にしていかなければいけない」

 時代の変化を敏感に察知する一方で、歴史を貫いて積み重ねられたものを大切にしてサラブレッドと向き合う。藤沢和師の流儀であり、未来へ託す思いでもある。(取材・構成 浜木 俊介)

 ※1 サンデーサイレンスは86年に米国で生まれ、競走馬として89年ケンタッキーダービーなど米G1を6勝。91年に社台スタリオンステーションで種牡馬入り。初年度産駒は94年(平成6年)にデビューし、2年目の95年から07年までリーディングサイアーを獲得。産駒はJRA通算2749勝(うち重賞311勝)。

 ※2 タイキシャトルは94年、米国生まれのデヴィルズバッグ産駒。デビューは3歳(97年)4月と遅れたが、いきなり3連勝。同年ユニコーンSで重賞初勝利を飾ると秋にはマイルCS、スプリンターズSとG1を連勝。翌98年には仏G1のジャックルマロワ賞を制すなどG1・3勝を挙げ、年度代表馬に選出された。通算成績は13戦11勝。

 ◆藤沢 和雄(ふじさわ・かずお)1951年9月22日、北海道生まれ。67歳。1987年に調教師免許を取得し、翌年開業。88年4月24日、新潟11RのガルダンでJRA初勝利。JRA賞は最多勝利12度、最高勝率9度、最高賞金獲得8度輝いている。現役調教師では最多のJRA通算1442勝。

最終更新:4/24(水) 6:41
スポーツ報知

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