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100年ぶりに目覚めたイタリアを最初に走った車とは?

4/24(水) 19:01配信

octane.jp

イタリアを走った最初の車、1892年プジョー・タイプ3が100年の眠りから覚めた。この歴史的な車を『Octane』が取材した。

100年ぶりに目覚めたイタリアを最初に走った車とは?(写真4点)

1892年の大晦日。チューリッヒから1台の自動車が汽車で運ばれてきた。プジョーが製造したタイプ3の25台目。これが翌年1月2日にイタリアを最初に走った自動車となった。

19世紀末、自動車は胸躍る新たな可能性を秘めた存在だった。カール・ベンツが、三輪のモートルヴァーゲンで特許を取得したのが1886年1月29日のことだ。その後、ゴットリーブ・ダイムラーとヴィルヘルム・マイバッハが、このコンセプトを徐々に改良し、1888年に最初の2気筒エンジンを完成させ、商業的に大きな成功を収めた。翌1889年、エッフェル塔が誕生したパリの万国博覧会で、ダイムラーはエミール・ルヴァッソールとルネ・パナールの二人と会談した。ダイムラーのエンジンをフランスで工業用に販売したいと考えていた二人は、エンジンを100台注文した。これが歴史的な転機となった。

その頃アルマン・プジョーは、既にフランスで自転車メーカーとして名を成し、5カ所の工場と2000人の従業員を抱える一大帝国を率いていた。パリ万博から数カ月後、ダイムラーはパナールとルヴァッソールを伴ってアルザスにプジョーを訪ねた。ここで、ダイムラーとライセンス契約を結んだパナール・エ・ルヴァッソールがパリでエンジンを製造し、それをプジョーに供給することが決まった。

1891年4月、プジョーは初のガソリンエンジン車であるタイプ2を発表。同年9月には改良型のタイプ3が続いた。64台製造されたタイプ3は、鋼管製シャシーに、前後向かい合わせの座席を備えた“ヴィザヴィ”と呼ばれるボディを載せていた。パナール製のダイムラーエンジンは排気量1160cc、バンク角17°のV型2気筒で、1000rpmで2bhpを発生。シャフトを2本備える3段ギアボックスとチェーン式トランスミッションで後輪を駆動した。

イタリアのビジネスマン、ガエタノ・ロッシは、一族が営む織物会社の3代目オーナーだった。当時イタリアで最大の会社だ。ロンドンとパリで教育を受けた37歳のロッシは、自動車に心惹かれ、1892年8月30日にプジョー・タイプ3をオーダーした。4座のボディと2bhpのエンジンに加えて、ソフトトップとレザーのタブリエ(風雨や寒さから乗員を守る前掛け)を備えたものだ。支払った金額は5567.27フランだった。

ロッシは、購入したシャシーナンバー25、エンジンナンバー124のタイプ3を毎日のように使っていた。当時の新聞記事は、この車が“炎の馬車”と呼ばれ、民衆の好奇心をかき立てていたことや、プジョーの行く先々で馬などが驚き、荷車や馬車が側溝に転がり落ちたことなどを伝えている。

ロッシは1896年に一家の友人だったグイド・ラッザリにタイプ3を売却し、イタリアに輸入された2台目のプジョー、3.75bhpのタイプ9(シャシーナンバー206)を手に入れた。一方タイプ3は、1899年に隣村のアイエッロで使われたという記事が残っている。その後も走行できる状態だったが、第一次世界大戦が勃発すると、イタリア空軍のカドルナ将軍の求めでパーツの一部を提供した。以来、点火装置などいくつかの部品が失われ、チェルヴィニャーノにあるラッザリ家の別荘で保管されていた。

二番目のオーナー、グイド・ラッザリが1953年3月に死去すると、屋敷も売りに出された。おそらくラッザリから連絡を受けたのだろう、その年1月に、パドヴァにあったフィアットの子会社からトリノのフィアット広報部に1通の手紙が届いていた。車の詳細や所在地を伝え、フィアットの創設者ジョバンニ・アニエリが1894年にテスト走行したことが書かれていた。この手紙は、フィアットの共同設立者の息子であるカルロ・ビスカレッティ・ディ・ルッフィアに転送された。自身も高名なデザイナーだったビスカレッティは、古い車を愛し、自動車博物館を設立しようと1930年代から尽力していた(これがトリノ自動車博物館となった)。しかし、タイプ3はビスカレッティには渡らず、ほかの調度とともに骨董商マルケッティスに買い取られていった。

マルケッティスは古びたプジョーを骨董店で売りに出した。しかし、関心を示したのは実習で利用しようと考えた近隣の技術専門学校だけで、しかも無償での提供が条件だった。地元の新聞によれば、プジョーは街の祭りで皮肉にも馬に引かれてパレードに参加していたようだ。1954年10月、マルケッティスはフィアットの広報部に手紙を書き送り、100万リラか新車との交換を提案したという。そして、フィアット1100ジャルディネッタと交換に成功した。

買い取られたタイプ3は、ビスカレッティの博物館が完成するまで数年間保管されていたが、博物館にワークショップが整備されると、そこで“お色直し”を受けた。ボディはダークブラウン、車輪は白になり、薄い色のフェイクレザーでトリミングされ、のちの時代の角型ライトが付けられた。ボディに取り付けられていたプレートには、「Costruzioni Meccaniche di Saronno, number 438, Brevetto Daimler(サロンノ製、ナンバー438、特許ダイムラー)」と記されていた。サロンノとは、ドイツの鉄道車両メーカーのイタリア子会社で、おそらく1902~1918年にこの車の整備を行ったワークショップだろう。保管庫に眠る手紙にはダイムラーだと記されていたが、博物館のカタログには、「1894年製プジョー。サロンノによってイタリアで製造された」と記載され、そのまま46年間展示されていた。

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最終更新:4/24(水) 19:01
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