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「天狗現る」巨漢力士を次々に投げ飛ばし…岡部平太の学生時代

4/24(水) 12:06配信

西日本新聞

平和台を創った男 岡部平太伝 第2部<5>

 スポーツの聖地・平和台(福岡市)を創設した岡部平太(1891~1966)。糸島で生まれ、福岡、東京、米国、旧満州、そして世界中であらゆるスポーツを体得・研究し、生涯をかけて「コーチ」に徹した。「2020東京五輪」を前に、日本近代スポーツの父ともいえる男の波瀾(はらん)万丈な生きざまを追う。

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 上京して半年が過ぎた1913(大正2)年の秋。岡部平太の元に、突如として学生相撲大会への出場を要請する通知が届いた。関東と関西の選抜チームが戦う大会。岡部は講道館2段の腕を見込まれ、関東チームに起用されたのだった。

 幼い頃から相撲には自信があった。しかし、柔道に専念していた岡部は「気乗りがしない」と、通知をしばらく無視していた。

 それでも相撲部の同級生たちは諦めず、「出稽古だけでいいから付き合ってほしい」と言う。仕方なく了承すると、名横綱といわれた常陸山がいる両国の相撲部屋に連れて行かれた。

 そこで岡部は、2人の巨漢力士を次々に投げ飛ばしてしまう。

 「相手は何度やっても勝てず、諦めてしまった」

 岡部にとっては当然の結果だったが、身長164センチの小兵が大男を倒すのを見て、周囲は度肝を抜かれた。新聞では「天狗(てんぐ)現る」と大々的に報じられ、大会に出場しないわけにもいかなくなった。

 結局、大会では岡部が圧倒的な強さを発揮。相手の主将を破り、関東チームを勝利に導いた。余談だが、岡部に負けた相撲部屋の力士2人はよほど悔しかったのか、後日、東京高等師範学校に仕返しにやってきたという。

 翌年、2年生になった岡部は軟式テニス部の練習に参加するようになった。校長の嘉納治五郎は、一つ以上の部活動をするよう奨励しており、掛け持ちは珍しくなかった。そこで、生涯の友となる四角(しかく)誠一(元大阪ガス副社長)と出会う。

 柔道では敵なしの岡部と、テニス部エースの四角。それぞれの競技でトップに君臨し、負けず嫌いの2人は自然と馬が合った。

 2人はペアを組み、強豪の早稲田大と対戦する。岡部は前衛で次々にボレーを決めて相手を苦しめた。惜しくも負けたが、四角はこう記している。

 「柔道の花形、岡部の前衛は東都庭球界をにぎわした。彼は何をやらせてもずばぬけてうまかった」

 柔道ではこの年、講道館の紅白試合で7人抜きの離れ業を達成。学生でただ一人の4段に昇進した。嘉納は柔道普及のために全国を回って講演していたが、この頃から岡部を伴い、模範演技をさせている。

 才能は開花し、すべてが順調に見えた。しかし、実は柔道を究めれば究めるほど、岡部の胸中には柔道に対する懐疑心が膨らんできていたのだった。 (文中、写真とも敬称略)

西日本新聞社

最終更新:4/24(水) 12:06
西日本新聞

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