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「引き揚げ者」の子が守るもの 木造住宅の明け渡し訴訟で

5/8(水) 12:22配信

47NEWS

 「引き揚げ者住宅」をご存じだろうか。敗戦後、住宅難に苦しんでいた旧満州などから引き揚げてきた人たちのため、国の援護事業として全国各地で建設された。その一つ、大阪府貝塚市の「引揚者東貝塚住宅」を巡り、府が住人で自治会長の村崎太さん(51)に建物の明け渡しを求め裁判で争いになっている。府は老朽化が激しいとして取り壊す方針だが、村崎さんは「ここで生まれ、家族と50年余り暮らしてきた。思い出が詰まった家を壊されるのは耐えがたい」と立ち退きを拒んでいる。取材を通して浮かび上がったのは、戦争で一度〝ふるさと〟を失った家族ゆえの、ふるさとへの強いこだわりだった。

(共同通信=大阪社会部・武田惇志) 

 ▽満州へ 

 JR阪和線東貝塚駅から南東へ、徒歩10分ほどで小高い丘の上に現れる古い木造家屋が、村崎さんの住む東貝塚住宅だ。

 旧厚生省援護局の資料などによると、引き揚げ者住宅は1946~54年度、全国で約7万9千戸が建てられた。東貝塚住宅は1951年に50戸、府が建設した。

 村崎さんの祖父は鹿児島県出身で、戦前は大阪市内の郵便局で働いていた。その後、関東軍の経理として召集されて一家で旧満州へ移住、ハルビンで暮らした。

 敗戦直前、村崎さん一家は45年8月9日のソ連参戦の情報をいち早く知った。いつも静かで温厚な性格だった祖父が「急いで荷物をまとめろ」と血相を変えて家に飛び込んできたという。軍のトラックに食料を満載して、ハルビン市内にあったコンクリート3階建ての建物へ一家で身を潜めた。

 「ソ満国境地帯にいて、逃げる余裕がなかった満蒙開拓団に比べるとまだ好条件だったろう」と村崎さんは言う。それでも建物では多くの乳児や老人が亡くなっていた。一家は1年ほど後に引き揚げることができたが、曽祖母は祖国の地を見ることなく、引き揚げ船で病死した。

 村崎さんの母節子さんは生前、引き揚げの苦労について言葉少なで、むしろおもしろおかしく語るようなところがあった。満州での生活についても「異文化に触れられて良かった」と懐かしんでいたという。一方で、引き揚げ世代の記録を残そうと村崎さんが住民に実施したアンケートでは、ソ連兵による暴行や略奪に「怖くて、生きた心地がしませんでした」と記していた。 

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最終更新:5/8(水) 12:22
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