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“念のため”の認知症治療薬で性格が激変した夫

5/12(日) 9:30配信

毎日新聞

 「『アルツハイマー型認知症』ではないかもしれないけれど、念のため」。ある70代の男性はこうして認知症治療薬を飲み始めました。しばらくして男性は言動が乱暴になり、困った妻は別居しました。でも薬をやめたら男性は穏やかな性格に戻り、夫婦は2人暮らしに戻りました。小田陽彦医師(ひょうごこころの医療センター認知症疾患医療センター長)がこんな事例を紹介し「(似た事例は)精神科医の共通体験。誤った薬の使い方で、被害を受けている人が多いのだろう」と訴えます。【毎日新聞医療プレミア】

 「先生の言う通り薬をやめたら夫はすっかり穏やかになりました。本当にありがとうございました」。先日、外来診察中に、ある認知症男性患者の妻が私にこうおっしゃいました。

 私は精神科病院に勤務する精神科医です。主に認知症の患者さんを担当しています。認知症の医療には、いろいろ注意すべき点があるのですが、患者さんやご家族、さらには医師の一部にさえあまり知られていません。このご夫妻も知らずに苦労し、そして、知ることで穏やかな暮らしに戻れた方たちでした。

 ◇穏やかな2人暮らし

 ご夫妻はともに70代。お子さんの独立後はずっと2人暮らしをされ、夫婦仲に特に問題はありませんでした。

 前々から物の名前や人の名前が出てきにくいと自覚していた夫は、今から約2年前に一人でかかりつけの病院に相談しました。心理検査では異常な物忘れはありませんでしたが、頭部MRI検査(脳の血管や形に異常がないかどうかを調べる画像検査)を受けたところ、「『アルツハイマー型認知症』に特徴的な脳萎縮パターンがある」と医師に指摘されました。

 「アルツハイマー型認知症」の早期診断を支援するソフトが、検査結果を自動解析し、そう診断したというのです。「まだ『アルツハイマー型認知症』ではないかもしれないが将来的にそうなる可能性もあるので『アルツハイマー型認知症の治療薬』を飲んでみますか」と医師は夫に尋ねました。夫は勧められるままに薬を飲み始めました。これは、アルツハイマー型認知症の症状進行を一時的に抑えられるかもしれない薬です。

 ◇性格が激変し怒鳴る夫に妻は別居

 まもなく、穏やかだった夫の性格が激変しました。少し気に入らないことがあるだけで妻を大声で怒鳴るようになりました。

 それまで夫婦円満な生活だったので妻はびっくりしました。ただ、夫に口答えしなければ暴言が出ることはないので「認知症ならば仕方ない」と思い、妻はできるだけ夫を刺激しないよう、自分自身の振る舞いに気をつけました。

 診断を受けて2年後、夫は「自動車を運転中に交通標識の意味が分からず、交通違反をして警察に検挙される」という事を、2回繰り返しました。「事故は一切していない」と夫は言いますが、その割に車体は擦り傷だらけでした。

 子も含めた話し合いが行われ、車の運転をやめるよう説得が繰り返されました。しかし、夫が説得に応じることはありませんでした。それどころか、子が帰った後に夫は「全部お前が悪い」「事故で死ぬならそれでいい」「今から新車を買いに行くから金を出せ」「出さないなら出ていけ」と妻を罵倒しました。妻に手をあげるようなそぶりも見せました。

 「これ以上家にいたら殺される」と感じた妻は、自宅から避難し、近くの友人宅で夫と別居しました。そして夫は連れずに、精神科病院の物忘れ外来を受診しました。対応したのは私でした。

 ◇「治療薬」中止の勧め

 お話を伺うと、「アルツハイマー型認知症治療薬」を飲み始めてから、明らかに経過が悪くなっています。そこで私は、暴言や乱暴な振る舞いの原因が、治療薬の副作用である可能性を第一に考えました。「アルツハイマー型認知症治療薬」を使うことで、かえって暴言や暴力が悪化する事例をよく経験していたからです。

 仮に暴言が、「アルツハイマー型認知症」の症状だったとしても、治療薬が火に油を注いでいると考えられるので、薬をやめるべきだと思いました。

 また「アルツハイマー型認知症治療薬」の説明書(添付文書)の「重要な基本的注意」の欄には「本剤により、意識障害、めまい、眠気等があらわれることがあるので、自動車の運転等(中略)に従事しないよう」と記載されています。ですから、運転を続けることに強い意欲を見せている人にこの薬を処方、調剤するのは、もともと不適切でした。

 夫は車のことを主治医に何も伝えていなかったようです。伝わっていれば処方、調剤はされなかったのでしょう。

 というのも薬が効く「アルツハイマー型認知症」であることを示すはっきりした症状は無く、あくまで念のための処方に過ぎないので、運転をやめさせてまで薬を飲んでもらう必要はどこにもないからです。

 私は妻にこれらの事情を説明し「アルツハイマー型認知症治療薬」をやめるよう訴えました。妻は「薬をやめると余計に病気が進むのではないか」と心配しました。

 確かに、この治療薬を中止することで症状が急に悪化する人もいるので、自己判断で中止するのは一般的にはお勧めできません。ただ、この方の場合に限って言えば「薬を中止するよりも継続する方が危険」だと思われました。薬の副作用で「暴言や乱暴な振る舞いが悪化する」危険、「眠くなるなどして交通事故を起こす」危険以外に、「過量服薬による健康被害(嘔吐<おうと>、めまい、不眠、下痢、失神など)」の危険もありました。

 さらに、この薬の添付文書は「医療従事者、家族などの管理のもとで投与すること」と記載し、患者本人には管理させないように注意しています。

 というのも「アルツハイマー型認知症」の主な症状は物忘れなので、本人の管理で薬を使うと、飲んだことを忘れてまた飲む(貼り薬の場合は貼ったことを忘れてまた貼る)ことが容易に予測されるからです。乱暴な振る舞いのため妻が避難を余儀なくされ、夫が自分で薬を飲んでいるのなら、薬を続けるのはやめるよりも危険であることは明らかでした。

 ◇「中止したら悪化」を心配した妻

 それでも妻は「本人は主治医を大変信頼しているので、妻が言っても薬をやめることはないだろう」と懸念しました。私は主治医に手紙(診療情報提供書)を書いて、「上記の事情によりアルツハイマー型認知症治療薬の中止が精神科的には望ましいので検討していただけないでしょうか」とお願いしました。また、頭部MRIのデータも私に送ってほしいと依頼しました。主治医は快く引き受けてくれました。

 次の主治医の診察の際、「アルツハイマー型認知症治療薬はもう処方できない」と伝えられた夫は、大変怒ったようです。ほとんどその足で妻に付き添われて私の外来を訪れました。「あんたが手紙くれた医者か」と最初から立腹していました。まあ、精神科に一度も受診していないのに、精神科が勝手に薬を調整してしまったのですから、立腹はごもっともだったのですが……。

 ◇「アルツハイマー」ではなかった

 夫に心理検査を受けてもらうと、「三つの単語を覚えておく」課題は軽くこなし、主治医からの情報通り、異常な物忘れはありませんでした。一方で、時計を見せられて「これは何ですか」と聞かれると「でんわ」と誤って答えました。同じく鉛筆については「くすり」と誤って答えました。また、「天気」と書こうとして「電気」と誤って書きました。そこで「『言葉の意味の記憶』だけが特に損なわれている」のではないかと考えました。

 以前に撮影した頭部MRIをみると、側頭葉(こめかみの裏側にある脳の部分)が非常に萎縮している傾向がみられました。これは「前頭側頭型認知症」に特徴的な脳萎縮パターンです。「言葉の意味の記憶」だけが特に損なわれるのも「前頭側頭型認知症」の特徴的な症状です。「アルツハイマー型」と診断した、ソフトの自動解析は間違っていると思いました。

 そしてこの「前頭側頭型認知症」は、認知症の一種ではあるものの「アルツハイマー型」とは別の病気です。別の病気なので「アルツハイマー型認知症治療薬」は効きません。

 そこで私は、夫婦に対し「これは『アルツハイマー型認知症』ではない」と説明しました。そして改めて「薬は必要ない」「(認知症の一種ではあるので)車の運転はあきらめざるを得ない」と話し「車なしでも生活できるよう、今のうちから公的機関に相談しておく」ことを推奨しました。夫は診断に納得せず、二度と精神科外来を受診することはありませんでした。

 ◇薬をやめても困らなかった

 しかし、薬が切れてからは暴言や乱暴な振る舞いは速やかに消失しました。夫は本来の穏やかな性格に戻りました。妻は再び家に戻りました。

 夫は妻の説得に応じ、あっさりと車を手放しました。物の名前や人の名前が出てきにくい傾向は相変わらずでしたが、自動車運転以外で日常生活に大きな支障はなかったので、特段の困りごとはなくなりました。そこで妻はまた、一人で私の外来を訪れ、感謝とともにその後の様子を話してくださったのです。

 ◇「薬中止で改善」は専門医の共通体験

 私の知り合いの、認知症を専門とする精神科医たちはだいたい皆、「『アルツハイマー型認知症の薬』をやめて劇的に改善した事例を経験したことがある」と言います。それだけ、誤った薬の使い方のせいで被害を受けている人が多くいるということでしょう。

 このようなおかしなことになっている理由の一つは「世間一般に認知症の正しい知識が十分に普及していない」ことだと思われます。この事例も、「アルツハイマー型認知症治療薬」の副作用の一つとして暴言や暴力がひどくなることがある▽薬を使うのなら車の運転は控えなければならない▽薬は家族等が管理する必要がある――などの知識が普及していれば、一時別居は避けられたように思えてなりません。

最終更新:5/12(日) 9:30
毎日新聞

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