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梅崎春生「幻化」 死の淵に見た生の輝き【あの名作その時代シリーズ】

5/16(木) 18:00配信 有料

西日本新聞

深く切れ込んだ海岸線。坊津は薩摩藩の密貿易拠点だった。入り江を見下ろす高台に「幻化」の文学碑がある

 「あの名作その時代」は、九州を舞台とした作品、または九州人が書いた著作で、次代に残すべき100冊を選び、著者像や時代背景、今日的な意味を考えながら紹介するシリーズです。西日本新聞で「九州の100冊」(2006~08年)として連載したもので、この記事は06年6月4日付のものです。

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 主人公の五郎が、東京の精神病院を抜け出して鹿児島に向かうところから物語は始まる。常識的にはこのような行為を「現実逃避」とでも呼ぶだろう。だが、五郎は身の回りのものがリアリティーを失って信じられず、例えば「現実」とは何か、あるいは「逃避」が何を意味するのか、そんなことの輪郭がぼやけている。その朝、五郎はコーヒーを飲み、ちょいと散歩に出るような風情で飛行機に乗ったのだった。

 太平洋戦争末期、梅崎春生は海軍の通信下士官として鹿児島県坊津(現・南さつま市)に配属されていた。暗号電文解読の任務から、沖縄の惨敗や、いつ米軍が上陸してきてもおかしくない戦況を知っていた。坊津から桜島に転属して終戦を迎えるが、この間の事情を綴(つづ)り、軍隊の狂気を描いたのがデビュー作『桜島』である。そして二十年後の『幻化』が遺作となった。二つの作品は合わせ鏡として読むのが面白い。五郎は『桜島』の村上兵曹とほぼ逆のコースで、鹿児島から坊津へと向かう。記者もその足跡をたどった。

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 かつお節の香り漂う枕崎市街地を抜けると耳取(みみとり)峠という不気味な名前の峠がある。道が下り始めた辺り、木々の切れ間から唐突に眺望が開けた。海が青い。際限なく青く、まぶしい。

 この場所で五郎は「これだ。これだったんだな」とつぶやく。封印された記憶が動きだし、五郎は自らの逃避行の目的を知る。失われた時間を取り戻す旅だったのだ。坊津に入ると記憶はいよいよ鮮明となり、たまたま出会った女に「今はうしなったもの、二十年前には確かにあったもの、それを確かめたかったんだ。入院するよりも、直接ここに来ればよかった。その方が先だったかも知れない」と語る。

 今は失ったもの、かつては確かにあったもの。それは何なのか。 本文:2,575文字 写真:1枚

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西日本新聞

最終更新:5/16(木) 18:00
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