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【球数制限を考える】高野連第四代会長牧野直隆が16年前に鳴らした警鐘

5/16(木) 17:30配信

ベースボールキング

高校野球の「投手の酷使」が、最初に大きな問題になったのは2013年春の甲子園で、愛媛済美高校の安樂智大(現楽天)が決勝まで772球を投げ、これを米ESPNなどが大きく報じたのが始まりだ。
しかし、それにさかのぼること22年前、高校野球では投手の健康被害が大きな問題になった。1991年夏の甲子園(第73回全国高等学校野球選手権大会)の沖縄代表、沖縄水産高校は2年連続の決勝戦に進み、沖縄勢初の優勝に挑んだが、創部4年目の大阪代表、大阪桐蔭高校に8対13で敗退した。
大会後、予選から一人で投げぬいてきた沖縄水産のエース大野倫の右ひじが疲労骨折していたことがわかった。

大野倫の悲劇
大野倫は2年の夏まで外野手だったが、2年の秋から投手に転向。翌年4月に熊本に遠征、鎮西高校とのダブルヘッダーを一人で投げ切り3失点に抑える。球速は自己最速の145㎞/hをマークした。大野は夏へ向けて自信を強めた。しかしゴールデンウィーク中の練習で、ボールを投げたとたんに右ひじから「ブチッ」という音が聞こえた。
大野は連日200球、多い日には300球を投げていた。少しでも手を抜けば栽監督の平手打ちが飛んできたから常に全力投球だった。その挙句の負傷だった。大野は「この痛みはどうにもならない、それまでの痛みとは種類が違う」と思っていたが、右ひじの異変をだれにも言わなかった。病院にも行かなかった。
大野はそのまま沖縄県大会も一人で投げぬいた。有力な高校には打ち込まれたが、沖縄水産の打線は強かった。
しかし準決勝は、強豪校の那覇商との対戦。大野は意を決して栽監督に「先生、ひじが痛いんです」と告白。うすうすそれを察知していた栽は、大野に痛み止めの注射を打って投げさせることにした。注射の効き目は抜群だった。ひじの痛みは完全に引いて、ライバル那覇商を5対1で下す。
決勝戦の前にも注射を打って、豊見城南を6対2で下し、沖縄水産は2年連続の夏の甲子園出場を果たした。
甲子園でも、大野は打たれながらも決勝まで進んだが、大阪桐蔭高校に敗退した。

沖縄に帰ってから、チームメイトは閉会式のビデオを見て、グラウンドを行進する大野倫の右ひじが不自然な方向にねじ曲がっていることに気が付いた。このときにチームメイトは、大野が右ひじの故障に耐えて投げぬいたことを知ったのだ。
大野は医師の検査を受けた。診断は「右肘の剥離骨折」。亀裂も入っており、軟骨も欠けていた。ビー玉くらいの骨片も浮いていた。医師からは「この肘の状態ではピッチャーは無理だろうね」と言われた。

「メディカルチェック」を導入
大野の負傷の報を受けた、当時の日本高野連会長の牧野直隆はこれを深刻に受け止め、甲子園大会前に出場校の投手の肩ひじの「メディカルチェック」を導入することを決定。1年の試行期間を経て1994年から、春夏の甲子園に出場が決まった選手は、大阪大学整形外科系の医師によるメディカルチェックを受けることとなった。またこの年の春の甲子園(第66回選抜高等学校野球大会)から投手数の増加に対応するためベンチ入り人数は15人から16人に増えた。
甲子園大会でのメディカルチェックは、あくまで「甲子園大会期間中の怪我、故障を防ぐ」ことが目的ではあったが、各校の指導者は甲子園大会前に投手のノースロー期間を設けるなど、健康面に配慮するようになった。その面では一定の効果があったといえよう。

牧野直隆が残した「ことば」
日本高野連、第四代会長牧野直隆は、慶應商工学校から慶應義塾大学経済学部卒業。慶大野球部では主将・遊撃手として活躍。水原茂と三遊間コンビを組んだ名選手だ。
高校野球の「選手の酷使」「勝利至上主義」に強い危機感を持っていた。高野連会長を退任後に刊行した回顧録「ベースボールの力(2003年毎日新聞社刊)」では、その思いを綴っている。



選手を危険からどう守るか、それは大変重要な問題だ。
会長就任時の方針のひとつが休養日と複数投手制の提案だった。
平成5(1993)年夏の第75回大会の開会式で、僕は改めて、ゆとりをもって練習すること、休養の日を設けることを提唱した。その後も、機会があるごとに訴えてきた。
長時間の練習や、早朝練習が続き、年末年始にわずかな休みしかないチームが多い。野球漬けになってしまってはいけないと、僕は思っている。本分の勉強はもちろん、趣味を広げたり、けがの治療をしたりできる、ゆとりの日が不可欠だ。練習を休んで心身ともにリフレッシュさせる効果は大きい。勝利至上主義の抑制にもなるだろう。
平成6(1994)年8月7日の都道府県高野連会長会議で、僕はこう話した。
「長年繰り返されてきた精神野球からそろそろ脱皮して、科学的、医学的指導方針に基づいたものに改めるよう指導をお願いします」
それから3年後の平成9年5月の実態調査では、加盟校のなんと60%が休養日を設けるようになった。
(中略)
口をすっぱくしてきた複数投手の育成も、選手を危険から守る意味がある。
継投や先発のローテーションという考え方は、何も最近入ってきたものではない。慶大時代、腰本(祷)監督の用兵に組み込まれていたし、戦前に来日した米大リーグ選抜チームからも、僕は投手の役割分担について教えてもらった。どうも日本は、ひとりの大黒柱が燃え尽きるまで投げぬくのが美学、というところから抜け出せない。一種の精神主義、まあカルチャーなんだろうけども、それでは投手は使い捨てになってしまう。
慶大時代、甲子園で活躍した素晴らしい資質の投手が入学してきた。が、彼は中学時代に肩やひじを酷使したことが原因で、投手として東京六大学の舞台に立つことはできなかった。高校生は育ち盛りだ。指導者の監督も一緒になって一時のヒロイズムで、未来ある素質をつぶしてはいけない。
(中略)
肩は絶対に温存すべきだというアドバイスは、昭和9(1944)年に来日した大リーグ選抜チームの投手たちが日本のエース、沢村榮治君に授けたものだ。日本の野球人も、肝に銘じなければなるまい。

16年前に、すでに投手の酷使に対する強い危機感が、当の日本高野連会長の口から発せられていたのだ。牧野会長は「勝利至上主義」に対する警鐘も鳴らしていた。

残念ながら、牧野直隆会長の思いは、その後の高校野球に十分に継承されているとはいいがたい。
「球数制限」の議論は、どのような結論へとつながるのか、注目したい。(広尾晃)

BASEBALL KING

最終更新:7/3(水) 12:00
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