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漆紙文書研究の開拓者であり第一人者が古代社会の古代の「地方」像を語る―平川 南『地域に生きる人びと: 甲斐国と古代国家』磯田 道史による書評

5/19(日) 6:00配信

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◆古代社会の「地方」の実態伝える

「令和」元号のもとになった『万葉集』に注目があつまっている。古代史は、のちの時代に比べて史料が少ない。『古事記』『日本書紀』『正倉院文書』など都の限られた史料をもとに書かれるから、日本古代史は「中央」からみた律令政府史になりがちで、「地方」の実態は見過ごされがちであった。ところが近年、古代遺跡の発掘調査が進み、木簡や漆がかかった紙の文字=漆紙文書が発見され、これらをもとに、古代社会の地方のありようがかなり詳細に解明されつつある。

本書の著者は、この漆紙文書研究の開拓者であり第一人者。史料のない古代史の新史料を発掘してきた当人が、古代の地方像を語るのだから、本書は面白い。邪馬台国や大王・天皇に興味をもつ古代史ファンは多いが、このところの日本古代史で最先端の研究フロンティアになっているのは、何といっても古代社会の「地方」の実態をさぐる研究といっていい。

新聞連載で一般向けに書かれた本書には、われわれ歴史学者は知っているが、一般には知られていない情報が満載されている。例えば東京や埼玉のあたりは「武蔵国(むさしのくに)」。蔵は蔵王(ざおう)の「ざ」と読めるが、「武蔵」の二文字は「むざ」としか読めない。なぜ「むさし」と読むのか。これは704年に律令政府が一斉に「国印」を作ったとき、国名を全て二文字にしたから。それまでは「武蔵志」「无耶志國」と書いていた。

古代の地方には、都から国司が派遣され、その役所である国衙(こくが)や、その下部機関の郡家などが置かれた。古代の地方には、大陸からの渡来人が多くおり、技術集団として律令政府が地方に配置していた。「等々力」「栗原」という地名が各地にあるが、これは渡来人などが馬の飼育をした地であるという。「栗原」は古くは「呉原」と書き、大陸からきた人々の馬の飼育・調教にかかわる名称である。

古代にはマイナンバーもあって、20~30人からなる基礎単位である「戸」には1から50までの番号がふられていた。江戸時代の戸籍簿「宗門帳」に、家ごとに番号をつけたものは少ない。日本の国家は、古代、そして明治期に「何番屋敷」などと民戸に数字をふり、平成になってはじめて個人に番号をつけて国民を管理するようになったのであろう。

地方創生がさけばれているが、日本の地方を考えるには、古代にさかのぼって地方の実態を知る必要がある。古代国家は、国府の周辺に、国分寺・国分尼寺の僧尼ばかりでなく、国学(学校)、その教師(国(くに)博士(はかせ))の住居=博士舘(たち)をおき、さらには国医師も配置した。彼らが文字による古代国家の地方支配を手伝っていた。白鳳文化の時代(645~710年)に、地方で寺院が急速に増えるから、私は、この時期から文字を操る「文明」が日本の地方に本格的に配られはじめたと考えている。その後も、国府周辺の知的施設が、日本の中央から地方に文字や医療をひろげる配電盤の役割を果たしていたことは想像に難くない。

東アジアのなかで、日本の識字率が中国・朝鮮半島よりも、ずっと高い水準になったのは、江戸時代になってからであるが、古代国家が、文字・文化・医療の種を地方にまいていたことは、のちに役に立った。国府の遺跡周辺からは、今でも風字硯(ふうじけん)といって「風」の字に似た形の硯(すずり)が掘り出され、文字を墨書きした土器も出土する。

西暦800年頃の人口は540万から590万人で今の約20分の1のスケール。この社会が我々の出発点であり、原形であった。読みやすい本書で、日本列島の地方の「初期状態」を知っておきたい。

[書き手] 磯田 道史
歴史学者。
1970(昭和45)年岡山市生れ。茨城大学准教授。2002年、慶應義塾大学文学研究科博士課程修了。博士(史学)。日本学術振興会特別研究員、慶應義塾大学非常勤講師などを経て現職。著書に『武士の家計簿』(新潮ドキュメント賞)、『殿様の通信簿』『近世大名家臣団の社会構造』など。

毎日新聞 2019年4月28日掲載

磯田 道史

最終更新:5/19(日) 6:00
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