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世界のビッグ7、戦艦「長門」の一部始終 旧海軍の象徴がビキニ環礁に沈むまで

5/21(火) 6:05配信

乗りものニュース

日本海軍の象徴、「長門」

 いまでこそ、「20世紀における日本の有名な戦艦は何?」と聞けば多くの人が「大和」もしくは「武蔵」と答えるでしょう。しかし、太平洋戦争当時は、そうではありませんでした。「大和」も「武蔵」も厳しい情報統制のなかで建造され、一般の人びとには全くといっていいほど知られていなかったのです。それでは当時の人たちにとって、一番なじみ深い「日本海軍の象徴」といえる戦艦は何だったのかといえば、それは「長門」でした。

【写真】終戦後に撮影された「長門」のブリッジ

「長門」が完成したのは、1920(大正9)年のことです。完成当時は世界最大の戦艦で、主砲も最大クラスの41cm連装砲(対外的には16インチ、40.6cm)、速力も最高26ノット=48.152km/h(同じく23ノット=42.596km/h)と、その前に建造された伊勢型(36cm連装砲、新造時23ノット)から見ても驚くほどの高スペックを持った戦艦となりました。

 これはイギリスの造船技術を学び、金剛型戦艦の2番艦から4番艦を国内で完成させたことにより(1番艦「金剛」のみイギリスで建造)、向上した日本の技術を詰め込んだ結果でした。

 長門型2番艦の「陸奥」も同等のスペックを持った戦艦となりました。当時は大艦巨砲主義が最盛期を迎えていた時代です。高まる列強の戦艦建造競争によってどんどん巨大になっていく艦体と主砲口径、その最たるものが長門型戦艦で、本型の登場が世界初の軍縮条約となった「ワシントン海軍条約」締結のきっかけになったといわれています。

「世界7大戦艦」のひとつに数えられた「長門」

「長門」の完成直後、「ワシントン海軍軍縮条約」が採択され、世界の海軍は「ネーバルホリデー(海軍休日)」と呼ばれる時代に突入します。これは、列強各国とも行き過ぎた大艦巨砲主義によって国家予算が圧迫され、経済に悪影響が出てきたために締結された条約です。

 これにより、41cm以上の主砲を搭載した3万5000トン以上の大型戦艦の建造は制限されたため、長門型2番艦の「陸奥」は、同条約によって廃艦になるのを防ぐために、未完成の状態で日本海軍へと引き渡されました。そして、当時建造された大型戦艦、日本の「長門」と「陸奥」、イギリスの「ネルソン」と「ロドニー」、アメリカの「コロラド」と「メリーランド」「ウェストバージニア」、この7隻を指して「世界のビッグ7(世界7大戦艦)」という言葉まで生まれたのです。

 わずか10年前まで、大型戦艦の建造技術を持たず、イギリスの力を借りて戦艦を建造していた日本が、(「ワシントン海軍軍縮条約」という時代の流れがあったとはいえ)世界のトップ7に名を連ねる巨大戦艦を2隻も造り上げたのです。あっという間に「長門」と「陸奥」は、「日本海軍の象徴」「日本の誇り」として、国民から親しまれていくようになります。

 その「長門」の最初の見せ場は、戦場ではなく災害派遣でした。1923(大正12)年9月に起こった「関東大震災」です。

 当時、中国北東部の渤海湾で演習中だった「長門」をはじめとする連合艦隊は、すぐさま救援物資を積載し、東京へと向かいました。ただし、前述したように「長門」の公表最高速度は23ノット。しかし実際には26ノット以上のスピードが出せたといいます。外国の軍艦にその秘密であるスピードがばれないように、外国船が近くにいるときにはスピードを落とし、ほかの船が周囲にいなければスピードを上げて、東京へと急いだといいます。こうして大災害に見舞われた東京に駆けつけました。

 その後、大規模な改装を繰り返し、装甲や機銃の増設などが行われます。一番の変更点は「屈曲煙突」の設置で、排煙問題が解消されたため、この煙突の形状は以後の艦艇建造の主流となっていきました。

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最終更新:5/22(水) 10:27
乗りものニュース

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