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「ジャリ電」から「ジャマ電」へ…復興のために走り抜けた東急砧線の昔といま

5/26(日) 15:01配信

乗りものニュース

関東大震災後の復興を支えた

 首都圏有数の混雑路線である東急電鉄の田園都市線。このうち渋谷~二子玉川間は、かつて玉川線(玉電)という名前で路面電車が地上を走っていました。還暦を迎えたくらいの人でしたら子どものころの記憶にあるかもしれません。その玉電も、さらにかつては多摩川で採れる砂利を運ぶ路線だったということを知る人は、より高齢の方に限られることでしょう。

【写真】砧線の跡をたどる

 玉電の砂利輸送を特に支えていたのが、東京都世田谷区内の二子玉川園駅(駅名は玉川、二子読売園などの期間あり。現在の二子玉川駅)と砧本村(きぬたほんむら)駅を結んでいた砧(きぬた)線です。全長2.2kmほどで、多摩川の河川敷で採れる砂利を東京中心部に輸送することが主目的でした。開業は関東大震災の半年後である1924(大正13)年3月です。当時、復興建設ラッシュで、コンクリートに必要な砂利の需要が高まっていました。そのため、玉電は「ジャリ電」とも呼ばれていたそうです。

 当初は砂利輸送を中心にしていた砧線も、次第に付近の人口増加に伴い、旅客輸送にシフトしていったといいます。しかし、戦後高度経済成長真っ盛りの1969(昭和44)年、地下鉄(のちの新玉川線、現在の田園都市線の一部)建設などに伴い、砧線は玉川線ごと廃止されてしまいました。

 その跡地は現在、道路として使われています。二子玉川駅を降りて北へ5分ほど歩くと、「花みず木通り(砧線跡)」という名前の通りがあります。幅約4mもない一方通行の道路で、クルマが通るにはやや狭い印象です。国道246号の新二子橋をくぐると道幅は少し広くなり、幅2mくらいの歩道も出現。そこから150mほど進むと、「砧線中耕地駅跡」と記された石標が歩道に立っています。当時の駅の様子を描いたカラー張りのタイルもありました。

終点の駅は現在バス停に 線路の筋をたどる

「中耕地駅跡」から500mほど進むと歩道と車道が完全に分かれ、さらに歩道も、歩行者と自転車が分離されたサイクリングロードの様相を呈します。砧線はこの歩道部分を走っていたといいます。そして道路は左(南西)へとカーブ。その先は、多摩川の支流である野川に架かる橋「吉澤橋」です。

 この橋の歩道上に、吉澤橋について写真入りで書き記した由来書が置かれています。そこには、この橋は砧線の開通にあわせて架けられた鉄道橋であったこと、そして廃線によって道路橋として架け替えられたという内容です。1961(昭和36)年当時の橋の写真もあり、いまとは違う景色が広がっていたこともうかがえます。

 吉澤橋を過ぎて住宅街へ。場所にもよりますが、道幅はバス1台が通れるくらいで、ここでも一方通行です。この住宅街の狭い路地裏を路面電車が走り抜けていたのだと考えると、神奈川県の鎌倉市と藤沢市を走る江ノ電(江ノ島電鉄)のような光景が思い浮かびます。

 その狭い路地を1kmほど西へ進むと、丁字路で終わりに。この先は駒澤大学玉川校舎グラウンドであり、その右脇にはバスが転回できる敷地が広がっています。東急バスの砧本村停留所であり、ここが砧線の終着駅でもありました。バスは、二子玉川駅から砧本村まで、先ほどまで歩いてきた一方通行の道を進むと、砧本村から北へ進路を変え、さらに二子玉川駅へと戻っていく循環ルートを走っています。

 砧線の跡地は、一部はサイクリングロードですが、それ以外はクルマも走れる道路に変わっています。そしてかつて砧線が担っていた旅客輸送は、東急バスのおもに「玉06」系統が現在も受け継いでいます。

 玉06系統は、日中でも1時間に4~5本ほどが走っています。乗客数は、平日の昼間でも座席の半分が埋まるほどです。二子玉川駅から砧本村停留所までの所要時間は、10分ほどでした。

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最終更新:5/27(月) 14:32
乗りものニュース

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