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「個性だから」で片付けないで 共感しづらい「誰かの悩み」を考える 「違いに寛容になる」は目的じゃない

5/30(木) 7:00配信

withnews

 「恥ずかしがり屋」「引っ込みがち」など、一見、「個性」に見えるものに、当事者が深く悩んでいるとしたら……? 場面緘黙(かんもく)という症状の人は、言いたいことがあるのに声が出なくなることに苦しんでいますが、はたから見ると、個性だと片付けられがちです。「個性」を尊重することは大事です。たくさんの個性が認められる社会は、誰もが望んでいます。しかし、本人も変えたいと思っている悩みは個性と言えるのでしょうか? 多様性が認められつつある時代、個性との向き合い方について考えます。(朝日新聞デジタル編集部・野口みな子)

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「本人の問題」というニュアンス

 「個性」とは、それはその人がその人であることの証しです。しかし同時に、「他人とは違う」という意味で”短絡的に”使用される恐れもあります。場面緘黙(かんもく)という症状の取材のなかで、そんな考えが芽生えました。

 場面緘黙とは、言葉を発することを求められる特定の場面で、話すのが難しくなる状態が1カ月以上続く症状です。家の中などでは思い通りに話すことができます。しかし、人に注目されることに非常に敏感になり、例えば学校の授業で先生にあてられたときなど、本当は言いたいことがあるのに、声を出せなくなってしまいます。

 取材した当事者は、物心ついた頃には家の外では話すことができませんでした。長い間「恥ずかしがり屋」「引っ込み思案」など、本人の「性質」「個性」としてみなされていたといいます。そして、生活に支障が出ているのに、「本人の問題」として適切な対応をとられていませんでした。

 結果、当事者は「他の子はできるのに、どうしてできないのだろう」と自分を責め、年を重ねるごとに人とのコミュニケーションへの不安が強くなっていました。「場面緘黙」という症状であることを知るまで、人とつながれる実感を得られないまま、それは自分の「性質」のせいで、努力不足だと感じていたのです。

 出口があるトンネルであるとわかったのは、当事者が大人になってからでした。

 前提の問題として、「場面緘黙」という症状の認知が十分に広がっていないことがあります。しかし、当事者が困っているのが「見えている」のに、私たちは見過ごしてしまうことができる、という別の問題が潜んでいると私は感じています。

 「自分としては『話せない』のに、周囲に『話さない人』と決めつけられていたのがつらかった」と当事者は語ります。

 もしかしたら、私たちは「違いに寛容になる」ことが目的になってしまい、誰かのわかりにくい、共感しづらい悩みを、「個性」という便利な言葉で片付けてしまっていないでしょうか。

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最終更新:5/30(木) 7:00
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