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<記者のこだわり>障害とともに(2)~電動車椅子の弁護士 135センチの目線から

6/9(日) 7:00配信

毎日新聞

 ◇24時間介助を必要とする弁護士として

 2019年2月、東京地裁で開かれた刑事裁判。弁護人や検察官が入るドアから、菅原崇弁護士(45)が電動車椅子で入廷した。付き添った女性が菅原さんの上着を脱がせ、弁護人席の机上に書面を並べた。この日は、証人尋問。多くの場合、弁護人は席から立ち上がって尋問するが、菅原さんは座ったまま。手を動かすことができないため、女性が菅原さんの合図に従って書面をめくっていく。

 菅原さんは全国でも珍しい「重度身体障害のある弁護士」。着替えや食事、トイレ、外出、移動……。どんな時も介助が必要だ。法廷にも、法曹資格のないヘルパーが付き添う。菅原さんは約10年前に交通事故に遭い、体が不自由になってから、一念発起して弁護士になる目標を達成した。菅原さんを突き動かした原動力と、バイタリティーあふれる活動の様子を追った。【東京社会部・蒔田備憲】

 ◇将来の目標は、医者だった

 少年時代の夢は、医師になることだった。小学生のころ、祖父が胃がんにかかり、手術でいったん完治したが、結局、膵臓(すいぞう)がんで亡くなった。祖父は胃がんの手術後、検査を欠かさなかったが、なぜか膵臓の異変が見逃されていた。菅原さんは「死という結果を仕方ないとは思えなかった。納得できなかった」という。祖父の死をきっかけに、医師を志した。

 東京都立三田高校を卒業後、医大を受験するが、最初の受験は不合格に。2度目の挑戦も失敗し、医師を断念した。結局、自宅に一番近い東京水産大(現・東京海洋大)に進学した。

 大学入学後は、しばらく挫折感を拭えなかった。しかし「腐っていても仕方ない。1回しかない大学生活を楽しもう。落ち込んでイライラしていたら、もったいない」と気持ちを切り替え、食品を通じて健康を支えたいと食品メーカーへの就職を目標に据えた。

 当時(1990年代後半)は、いわゆる「就職氷河期」。周囲と同じことをしていても内定を勝ち取れないと考え、①学長推薦の権利を得るため、首席になる②履歴書を埋められる資格を取る③視野を広げ、面接での話題をつくるため、旅行をする――という三つの目標を掲げた。①は3年生までに約60単位で「優」を取り、首席を取るという目標を達成。②は講義の合間を縫って、調理師免許▽危険物取扱者▽小型船舶▽潜水士――など20以上の資格取得に成功した。③は「青春18きっぷ」で国内を巡り、海外は20カ国を旅した。

 ◇次の目標は「社長」

 1997年、第1志望だった明治乳業(現・明治)への入社を果たした。「サラリーマンをやるなら、社長を目指す」。入社直後から、目標を公言した。「なるつもりで取り組まないと、仕事に魂が入らない」。残業をいとわず、先輩や上司に指導を求めた。商品製造部門と研究部門の両方でキャリアを重ね、同社の主力商品「おいしい牛乳」の開発に貢献した。

 真面目に働いたが、仕事一辺倒だったわけではない。夏は海外旅行に出かけ、冬は国内で仲間たちとスキーを楽しんだ。米国の博物館を見学したいと、週末に1泊3日の強行日程で渡航したこともあった。「よく働き、よく学び、よく遊ぶ」がモットーだ。公私とも充実していたが、そんな満ちた生活が2008年5月、一変した。

 ◇背後から車にはねられ

 普段と同じように仕事に励んでいた夜だった。午後8時ごろ、休憩がてら、職場を出て近くのコンビニに向かった。歩き慣れた道で突然、後方から強い衝撃を受けた。気づけば、乗用車のボンネット上に自分の体が乗り、しばらく走った後、急ブレーキで路上に投げ出された。運転手の前方不注意による事故だった。

 目立った外傷はなかったが、全身に痛みとしびれがあった。コルセットを巻かれた状態でベッドに寝たきりになり、起き上がることもできなかった。「同じような事故に遭った人でも、歩けるようになる人もいるし、車椅子生活になる人も、このまま寝たきりになる人もいる」。医師からの説明は、あいまいだった。症名は、首の中の神経が傷ついているために、手足のまひなどが起こる「頸髄(けいずい)損傷」だった。

 入院生活が1年に及ぶと、車椅子で生活できるようにはなった。しかし、腕の一部などを除き、首から下はほとんど自由に動かすことができなかった。医師から「これ以上は良くならないだろう」と言われ、退院した。

 ◇メーカーへの復職を断念

 退院にこぎ着けた時、菅原さんの気持ちを支えていたのは「復職」という目標だった。入院中に見舞いに来てくれた同僚たちが、有志で「復職支援チーム」を結成してくれた。また、自力で文字を書いたり、キーボードを打ったりできない菅原さんのため、マイクとパソコンを接続し、読み取った声を文字化する「音声認識ソフト」も贈ってくれた。このソフトを使い、週刊誌や新聞の記事を繰り返し読んで、文章を作成する訓練を重ねた。こうした努力を尽くす中で「事故前と同じようにいかなくても、介助者の付き添いと同僚の協力があれば復職できる」と自信もついた。

 しかし、会社の姿勢は復職に後ろ向きに感じられた。「一人で通勤できない」「介助者を職場に入れることはできない」「災害時に自力で避難できない」――。できない理由ばかり強調され、「どうすれば働けるか」という視点は検討してもらえなかった。

 そして「休職期間」の上限となる3年を迎えた2011年5月、「期間満了のお知らせ」と題した書面が届き、退職が決まった。全く納得できず、訴訟の提起も考えた。しかし「たとえ勝訴して復職しても、社長の夢はかなえられない」と考えた。支えてくれた同僚との関係が崩れるのも気がかりだった。何より「明治という会社が好き。仮に訴訟で勝てたとしても、悔いが残るかもしれない」。そう思うと、裁判に踏み切ることはできなかった。

 ◇「弁護士になろう」

 退職後、「次のステージ」を模索した。重度障害のある自分に何ができるのか――。ある時、地元の市役所に相談に行くと、障害者担当の職員から「これまで頑張ってきたんだから、無理せず、生活保護でいいんじゃないですか。あなたのような重度障害で働いたという前例もありません」と告げられた。一度は「それも一つかな」と思ったが、「努力しきっていろんなことを使い果たした後も、飢えさせない生活保護という制度があるんだ。それなら、努力するだけして、無理だったら生活保護を選択しよう」と考えた。努力の目標に据えたのが、国家試験で最難関とされる司法試験だった。

 動機の一つは、事故後の体験にあった。日常生活のあらゆる場面で介助を必要とする菅原さんにとって、病院での退院交渉や就職活動も一人ではできなかった。両親ら家族に頼ってもいずれは疲弊させて行き詰まるのが目に見えた。障害者を支援する側の立場になった時、法律的な代理行為を行える弁護士ならさまざまな課題の解決をサポートできると考えた。「自分自身が障害者として絶望を味わっているからこそ、できることがあるのではないか」。他に社会復帰する手立てはないようにも思えた。「これしか道はない」。決意は固まった。

 ◇OBやOGも巻き込んで受験勉強

 司法試験を目指して、法科大学院にチャレンジし、複数の合格を得た。退院後の復職を目指していた時に訓練した「音声認識ソフト」が、この局面で生きた。第1志望の北海道大は結局、雪道移動の負担の大きさから諦め、結果的に、自宅から通うことができる横浜国立大を選んだ。健常者ならどこへでも行けるのに、障害者は選択する自由を奪われ、道を狭められる。改めて理不尽な現実に直面した。

 菅原さんは大学時代、理系専攻だった。ともに学ぶ多くの学生は、法学部出身。最初の講義の冒頭5分で「ついていけない」と不安になった。危機感を募らせる一方、周囲には「自分は必ず、1回目の試験で合格する」と宣言した。「自分で自分を追い込まないと、成功しない」という持論があったからだった。

 言葉だけでなく、行動にも移す。法科大学院の講義に慣れ始めた1年生の秋ごろから、司法試験対策のゼミに参加。学内には同級生同士だけのゼミもあった中、OB・OGに頼み、合格者に参加してもらった。「開拓者ではなく、成功者がいる道を行く。その人に聞くのが一番早い」。そう考えたからだ。

 大学時代の就職活動のように、目標のためなら体面や外聞を気にしないで徹底追求する自身の特性を発揮した。卒業までに協力してくれたOB・OGは50人以上。「僕のことを知らないOB、OGはほとんどいない。『なんか菅原っていう、うるさい後輩がいる』とうわさになっていたようです」と笑って振り返る。

 ◇日本で初めて「音声認識ソフト」で司法試験に挑戦

 着実に力を付けていた菅原さんだったが、新たな不安材料も浮かんだ。「音声認識ソフト」を使った受験に前例がなく、「本番の試験で使えないかもしれない」と耳にしたからだ。菅原さんは受験予定の2年前から法務省に問い合わせたが、「試験に出願してからでないと、相談を受け付けられない」と断られた。そこで、同省と話し合うきっかけをつくるため、在学中にあえて「予備試験」(この試験に合格すると、法科大学院を経なくても司法試験の受験資格を得られる)に挑戦した。2年時の予備試験は音声認識ソフトの使用を認められず、使うことを許されたパソコンに向かい、腕を無理に動かしてマウスで解答を入力した。合格はしなかったが、目的は「ソフトの使用を認めてもらうこと」。3年時の予備試験で使用許可を得た。自ら「前例」を作ることで、道を切りひらき、ついに司法試験でも使用が認められることになった。

 そして卒業後に臨んだ司法試験の本番。同省に「障害者向けの特別措置」を申請した上で、他の受験生とは別の部屋で、通常の1・5倍の試験時間を認められた。菅原さんは長時間にわたって車椅子に座っていると、体の痛みが増して足が震え、座位を維持できなくなるため、簡易ベッドの持ち込みも認められた。そして、見事「一発合格」を果たした。

 ◇弁護士になっても「壁」はあった

 もちろん、司法試験合格はゴールではない。障害を理由に不当な扱いを受けることは、弁護士になっても変わらなかった。例えば、ヘルパーを伴って東京地裁の「関係者入り口」から入ろうとすると、ヘルパーだけ阻まれた。刑事事件の被告が勾留されている東京拘置所では、被告との面会にヘルパーが同席する必要性を拘置所職員に認めてもらえず、面会までに1時間以上、待たされた。警察署で留置中の容疑者と面会しようとした際も、署の職員から「ヘルパーは面会室に入れない」と拒まれた。

 ヘルパーの女性は、司法修習生の時から菅原さんを介助してくれている。女性は「健常者ならスムーズに入れる場所で、なぜ菅原さんだけが待たされたり、断られたりしなきゃいけないんだろう。菅原さんがヘルパーなしで被告と面会するなどした際、急に調子が悪くなったり仕事ができなくなったりしたら、公的機関の職員は手伝ってくれるのでしょうか」と憤る。

 理不尽な対応に遭遇した時、菅原さんは対応をした職員に頭ごなしに怒りの声をぶつけたり責めたりはしない。粘り強く、交渉することにしている。「ヘルパーは入れないなどと対応する人は不幸にして障害者と触れる機会がなかったのだと思います。それなら、僕を題材にして経験してもらえればいいのかなと。まあ、3回も同じようなことをされたら、本気で怒りますが……」と笑う。同じような障害のある弁護士が将来現れた時、自身の行動が先べんになると考えている。

 ◇大切なのは仲間の存在

 菅原さんの働きぶりには、同僚らも目を見張る。所属する「虎ノ門法律経済事務所」(東京都港区)の千賀修一所長は「入所時は、所内から『仕事ができるのか』と懐疑的な声もあった」と明かす。重度障害のある弁護士が働いている前例が少なかったためだ。それでも「本人は積極的で、やる気がある。工夫すれば何とかなる」と受け入れを決めた。菅原さんの入所に当たって、事務所内で車椅子が通行できるようスペースの確保などに取り組んだ。

 入所後の菅原さんは、周囲の懸念をはね返すように、どんどん仕事をこなしていった。実際、1年目の同期入所弁護士の中で、実績はトップだった。数字上の成績に関わらず、千賀所長は「菅原さんは人生が変わる体験をして弁護士になったことで、『困っている人を助けたい』という気持ちが他の弁護士の数倍あると感じる」と、その姿勢を評価する。

 菅原さん自身は「弁護士として働くようになり、会社員として働いた経験が生きていると実感している」という。企業勤務時代の教訓として「仲間を増やす」ことを意識している。「自分の能力は高が知れている。手は2本しかないわけです。それどころか、今の僕は動かせないから、0・5本とか0・3本くらい。でも、仲間がいれば、いろんなことができる」。同事務所で同僚だった男性も「菅原さんの強みは『人間力』。敵をつくらず、先輩にも後輩にも慕われる。障害は関係ない」と語る。

 ◇全国の頸髄損傷者をサポートしたい

 交通事故で、仕事も、生活も、あらゆることが変わった。「戻ることができるなら、正直今でも、事故前に戻りたい。なんでこんな目に遭わないといけないんだという気持ちは今もある」。事故直後は自暴自棄になり、運命を呪い、周囲にいらだつ気持ちをぶつけることもあった。しかし、そうした振る舞いで親しい人が一時、離れていった時、実感した。「これは、自分の足を食べるタコのようなものだ」。自分らしく生きるため、周囲の支援は欠かせない。「味方をつぶしたら、僕は何もできない。弁護士になるどころか、試験にすら行けないわけですから。だったら、味方をつくって、できれば僕のことを好きになってもらい、僕も楽しく生きるほうが、ずっといいと思うんです」

 幼いころの目標だった医師、そして大企業の社長。かつて描いていた立場とは違うが、弁護士という仕事は「今の状態なら、ベスト」と感じているという。元々、身長は185センチと大柄だった。事故前より目線は50センチ低くなった。と同時に、新しい世界が広がった。

 現在、同事務所海老名支店の支店長弁護士として活動する菅原さんだが、体のしびれや痛みは常にあり、投薬やケアは欠かせない。週1回のリハビリも続けている。体調面での不安はないわけではないが、「やりたいことは、たくさんある」という。特に頭にあるのは、困り事を抱えている日本中の頸髄損傷者を支援することだ。交通事故だけでなく、スポーツ事故や転倒などで、突然体を自由に動かせなくなり、さまざまな問題に直面する人たちが全国にいる。自分がそうだったように。目指すのは「挑戦する人を支えられる弁護士」。新たな目標を胸に、菅原さんは今日もパソコンに向かって声を出して文書を作り、ヘルパーとともに法廷に向かう。

<まきた・まさのり 1982年神奈川県湯河原町生まれ。2005年毎日新聞社入社。大津支局、富山支局、佐賀支局、水戸支局を経て、現在は東京社会部。個人的に関心を持って取り組んでいるテーマは、障害や難病と生活との関わりについて。著書に「難病カルテ 患者たちのいま」(生活書院、2014年2月)。毎日新聞佐賀県版で1年9カ月連載した内容を加筆・修正して刊行した>

最終更新:6/9(日) 7:00
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