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鼻が折れ気絶しても…岡部平太の挑戦者魂 平和台を創った男の波瀾万丈な生涯

6/10(月) 17:03配信

西日本新聞

平和台を創った男 岡部平太伝 第3部<3>

 スポーツの聖地・平和台(福岡市)を創設した岡部平太(1891~1966)。糸島で生まれ、福岡、東京、米国、旧満州、そして世界中であらゆるスポーツを体得・研究し、生涯をかけて「コーチ」に徹した。「2020東京五輪」を前に、日本近代スポーツの父ともいえる男の波瀾(はらん)万丈な生きざまを追う。

【写真】岡部のボクシングを紹介するシカゴトリビューンの記事

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 岡部平太が渡米して半年が過ぎたある日、日本の師、嘉納治五郎から手紙が届いた。「ボクシングとレスリングの研究をせよ」。柔道の国際化を図るため、岡部に西洋の格闘技を学ばせるのが嘉納の狙いだった。

 岡部はスタッグから、ボクシングジムを紹介してもらう。シカゴのダウンタウンの一角。岡部は世界王者を育てたトレーナーから、バンテージの巻き方やパンチの打ち方、ステップの運び方など、ボクシングの基本を学んだ。

 地元紙のシカゴトリビューンは「日本の学生がボクシングを習う」というタイトルで写真と記事を掲載。トレーナーは「飲み込みが早い」と評価している。

 そこで、岡部は初めて実戦形式のスパーリングを体験。顔面を打たれ、鼻が折れ、鮮血がマットに飛び散った。岡部の著書にはこう書いてある。

 〈シカゴの寒い吹雪の夜、プロ・ボクシング道場に通って、鼻をやられ、何枚かのハンケチで押さえても鼻血が止まらず、ミシガン湖畔(こはん)の電車に乗って寄宿舎に帰るつらさは、今思い出しても身にこたえる〉

 それでも岡部の挑戦心は衰えなかった。次に挑んだのは、スキージャンプ。スキーの経験はなかったが「見たら無性にやりたくなった」という。「どんな競技であれ、自分でやってみないと気が済まなかった」と岡部の教え子で福岡教育大名誉教授の厨(くりや)義弘(85)は話す。

 しかし、さすがにスポーツ万能の岡部も結果は失敗。着地で転倒し、気絶して病院に運ばれている。

 留学中、岡部が実践したのは、アメリカンフットボール、バスケットボール、野球、レスリング、ボクシング、陸上、水泳など多岐にわたる。途中、金策に困り、農場でのアルバイトも経験しながら…。

 また、シカゴ大では陸上トレーナーから科学トレーニングを、ペンシルベニア大ではスポーツ生理学理論を、ハーバード大では女子体育理論、体育史などを学んだ。帰国後はこうした理論を翻訳して出版。晩年に日本でマラソン選手を育成する際にも参考にしている。

 「私のスポーツ人生にとって、スタッグ先生や米国生活が大きな柱となった」

 岡部は人生観を一変させた留学を終え、1919(大正8)年12月、帰国の途に就く。しかし、日本ではさらに大きく人生を変える出来事が待っていた。

 (文中、写真とも敬称略)

西日本新聞社

最終更新:6/10(月) 17:03
西日本新聞

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