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政治に利用された「女性向け雑誌」 の歴史、そしてインターネット時代の今

6/13(木) 19:34配信

BuzzFeed Japan

講談社のファッション雑誌「ViVi」のサイト上で展開された自民党の広告キャンペーンをきっかけに、メディアと政治の関係が議論になっている。

歴史を振り返ると、政治はその時代に合わせてメディアを活用してきた。戦前、戦中期は新聞・ラジオだけでなく、女性向けの雑誌もその一つとして機能した。

女性向け雑誌が政治に翻弄された歴史をたどりつつ、インターネットへと広がった政治宣伝の現状をまとめてみた。【吉川慧 / BuzzFeed Japan】

明治末期には150誌超が刊行

雑誌は、その時代の空気を反映する「社会のあわせ鏡」のようなものだ。

日本では明治末期から女性向け雑誌の文化が花開いていた。「戦下のレシピ」(斎藤美奈子著)によると、明治末期には150誌を超える女性向け雑誌が出版されていたという。

最大の部数を誇った「主婦之友」(1917年創刊)を筆頭に、講談社の前身(大日本雄弁会講談社)が発行した「婦人倶楽部」(1920年創刊)、中央公論社の「婦人公論」(1916年創刊)など、明治~大正にかけて数多くの雑誌が誕生。

若年層向けでは、東京の山の手や京阪神の女子学生をターゲットにした「少女の友」(実業之日本社、1908年創刊)、「右手に教科書、左手に少女倶楽部」というスローガンで知られた「少女倶楽部」(大日本雄弁会講談社、1923年創刊)などが生まれた。

付録をつけての販売競争も、この時代からすでに行われていた。

女性に「良妻賢母」であることを求める風潮の中、誌面では結婚後の女性に向けた家事・育児の知識、料理のレシピなどが取り上げられた。

一方で、流行のファッションやメイク、ヘアスタイルの情報や、宝塚少女歌劇のグラビア、竹下夢二など人気画家の挿絵、川端康成の小説で人気を集めた雑誌もあった。

社会情勢が比較的安定していた時代、女性向けの雑誌は華やかな娯楽文化の一角を形成していた。

戦時中は戦争遂行に協力

ところが、こうした文化も戦争をきっかけに変化していく。

満州事変(1931年)や盧溝橋事件(1937年)を経て日中戦争が始まると、マスメディアに対する規制が強まった。女性向け雑誌も、その例外ではなかった。

日中開戦翌年の1938年5月、内務省は「婦人雑誌ニ対スル取締方針」を発し、記事の検閲を開始。内務省の「雑誌浄化運動」が展開された。

戦時下で物資統制も強化され、雑誌もその煽りを受けた。1939年には商工省の命令で、雑誌用紙は従来の25%に減らされた。

やがて翼賛体制のもと、女性向けの雑誌は15誌に整理・統合され、編集の自由も制限されることになった。

検閲が強化される中、山本有三は「主婦之友」で連載していた小説「路傍の石」を断筆。1940年8月号に掲載された読者への謝罪「ペンを折る」は反響を呼んだ。

戦争が進むに連れて、誌面では世の中で求められる「女性像」のイメージが描かれ、戦意高揚や国威発揚、女性の国家への貢献など、戦争協力を訴えるものが主軸になっていく。

表紙に「この一戦、何がなんでもやりぬくぞ!」などのスローガンを掲載する雑誌もあった。代用食のレシピや燃料不足の解決方法といった生活情報のほか、軍将校の寄稿文、戦場のルポなども掲載された。

太平洋戦争が末期に向かうころ、「主婦之友」(1944年12月号)は「これが敵だ!野獣民族アメリカ」と、アメリカへの敵意を煽る特集記事を掲載。表紙には「アメリカ兵をぶち殺せ!」という過激な言葉が踊った。

編集者の早川タダノリ氏は、戦時中の雑誌やパンフレットについての研究をまとめた著書「神国日本のトンデモ決戦生活」でこう指摘する。

「当時出版された雑誌やパンフレットなどを実際に目にしてみると、当時のジャーナリストや編集者たちの姿が浮かんできて、痛ましい思いにかられます。国家権力・情報局による厳しい言論統制に縛りつけられていたということはあるでしょう。しかし、彼ら自身もまた積極的に侵略戦争イデオロギーの先頭に立ち、大日本帝国の広報係としての役割を果たしていたのでしゃなかったか」

「このような世論誘導的な“仕掛け”や時局迎合的な姿勢は、なにも当時に限ったことではなく、現在に置いても巨大メディア産業や広告代理店などによって繰り返されていると言わざるを得ません」

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最終更新:6/13(木) 19:34
BuzzFeed Japan

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