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「田中一村作品集」 死後に花開いた孤高の画家【あの名作その時代シリーズ】

6/27(木) 12:30配信 有料

西日本新聞

「熱帯魚 ベラ2種」=田中一村記念美術館蔵 ⓒ2006 Hiroshi Niyama

 「あの名作その時代」は、九州を舞台とした作品、または九州人が書いた著作で、次代に残すべき100冊を選び、著者像や時代背景、今日的な意味を考えながら紹介するシリーズです。西日本新聞で「九州の100冊」(2006~08年)として連載したもので、この記事は06年10月1日付のものです。

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 田中一村は、奄美の自然を描いた孤高の画家である。世間が評価したのはその死後だった。そんな事情から彼の人生をたどる資料は少ない。例えば、誰に絵を習ったかということすら判然としない。なぜ奄美に来て、なぜ画風が一変したのかといったことに踏み込もうとすれば、現状では想像するしかない。奄美大島に来てあれこれ想像し、いくらか一村の気持ちに寄り添えた気分になった。そして、島を去るときふと脳裏に浮かんだのは「一村さん、あなたは幸せでしたね」という言葉だった。

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 一村は幼いころから南画をよくし、九歳で「米邨」と号した早熟の画家だった。十八歳で東京美術学校(現東京芸大)に入学したのも才能の一端を示していよう。同級生には東山魁夷らがいた。だが、入学からわずか三カ月で退学する。『アダンの画帖 田中一村伝』(南日本新聞社編)は、健康の問題とするが、後に出版された「奄美群島日本復帰50周年記念田中一村展」の図録は「定かでない」とする。厳密には分からないにしても、一村の類い希(まれ)なる「自信家」という性格が、背景にあったのだろう。一村が大変な自信家だったことは、今日の奄美でも何人かが「芸術の話になったら絶対に譲らなかった人」などと証言する。

 退学した直後に「田中米邨画伯賛奨会」なる後援会が作られ、賛助会員には参議院副議長小泉又治郎らそうそうたる知名士が名を連ねた。青年一村の絶頂期であったろう。

 だが、長続きしない。自分が本当に描きたい絵は違うのだという思いが、一村を支配する。描きたい絵と売れる絵が違うという問題は、画家にはしばしばあることで、大抵はどこかで折り合いをつけることになる。一村は妥協せず、支援者は去っていった。身内の不幸も重なり、最大の理解者である姉の喜美子と、千葉市で晴耕雨読ならぬ晴耕雨「描」の生活を送る。画壇に認められようとして、もがけばもがくほど認められなくなる。アリ地獄に落ちたような精神状態ではなかっただろうか。 本文:2,451文字 写真:2枚

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西日本新聞

最終更新:6/28(金) 14:22
西日本新聞

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