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戦後の沖縄で、なぜラジオが必要だったのか? 父・川平朝清から息子・ジョン・カビラへ語り継ぐ、放送の役目とは

6/27(木) 17:03配信

J-WAVE NEWS

J-WAVEがいま注目するさまざまなトピックをお届けする日曜夜の番組『J-WAVE SELECTION』。6月23日(日)のオンエアでは、「GENERATION TO GENERATION~STORIES OF OKINAWA~」と題して、ジョン・カビラがナビゲート。カビラの父で現在91歳の川平朝清さんは、戦争を経験し、終戦後に沖縄で放送に携わりました。当時体験し感じたことを、息子カビラが訊きました。

オンエア日の6月23日は「沖縄慰霊の日」でした。昭和20年(1945年)4月1日、アメリカ軍は慶良間諸島に続き、沖縄本島に上陸。日本軍との間で激しい戦闘が行われました。亡くなった方の数は、アメリカ側で1万2,500人を超えます。そして、日本側は軍に属さない民間人も含め18万8,000人を超える人たちが亡くなったとみられています。このうち、およそ半数は非戦闘員の一般市民でした。

昭和20年6月23日、日本陸軍の牛島満司令官が自決。自ら命を絶ち、日本軍の組織的な戦いが終わりました。しかし、沖縄など南西諸島の日本軍が全面降伏に調印したのは9月7日。つまり、6月23日の後にも、戦争で亡くなった方が多くいました。「沖縄慰霊の日」は、犠牲になった方々に祈りを捧げる日です。

戦後、沖縄は昭和47年(1972年)の本土復帰までアメリカ軍の直接統治下に置かれ、日本の政治、経済、法制度、さらに文化面から切り離された状態に。そんななか、沖縄でラジオ放送の立ち上げ、そしてその後、テレビも含む沖縄の放送に深く関わったのが、カビラの父である川平朝清さんです。

激しい戦いの末、焼け野原と化した沖縄。アメリカ軍の統治下に置かれた沖縄……そんな沖縄でのラジオ放送はどのように始まったのか。そして、どんな思いを込めて、どんなことを伝えてきたのでしょうか。


■台湾で大日本帝国陸軍二等兵に

まずは太平洋戦争末期の昭和20年。4月にアメリカ軍が沖縄本島に上陸し激しい戦闘が行われていた頃、川平さんは台湾にいました。

カビラ:沖縄戦は体験していないんですよね?
川平:そうですね。私は台湾生まれ、台湾育ちですから、当時は台北の高等学校にいました。医学系に進むべく学んでいた17歳のときに徴兵され、台湾に展開していた大日本帝国陸軍二等兵になっていました。
カビラ: 8月15日、終戦の日が来ます。玉音放送は聞けたんですか。
川平:聞けません。私たちの隊長が山から下ったところの中隊本部で玉音放送を聞いて、山に上がってきて「戦争は負けたぞ」と。それを聞いたときにいよいよ我々は敗戦国になったなと思いました。
カビラ:そこから、焦土と化した沖縄に戻るイメージはすぐ湧きましたか?
川平:私は湧きませんでした。台湾生まれ台湾育ちですから、沖縄に戻るという気持ちがなかったんです。だけども、日々、両親の沖縄に対する思いや、沖縄に大勢いる親戚がどうなっているかについて、いろいろ聞かされていました。

その時点で川平さんは、沖縄がアメリカ軍の強力な武器や弾薬の普及によって、壊滅的な状態だと聞かされていました。

川平:中には「沖縄がどれくらい持つか」と話す人もいました。だから元々、沖縄は捨て石だったんですね。アメリカ軍が本土上陸の前にどれくらい持ちこたえるかを知るために、沖縄の一般住民を巻き込んで酷い戦争になったと思います。

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最終更新:6/27(木) 17:03
J-WAVE NEWS

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