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「記憶の苦しみは死ぬまで消えない」 当時小学2年生の男性が証言を初めて決意 沖縄・宮森小米軍ジェット機墜落事故から60年

6/29(土) 7:04配信

琉球新報

 全身が焼けただれた少女の姿、やけどした皮膚をはがされた時の痛み―。「60年たつ今も、悪夢が度々襲う。傷は癒えても、記憶という苦しみは死ぬまで消えない」。沖縄県うるま市石川(旧石川市)の宮森小学校で1959年、米軍戦闘機が墜落し、児童ら18人が犠牲になった事故から30日で60年。当時2年生だった大竹昭夫さん(68)=与那原町=は全身にやけどを負い、今も右腕にくっきりと傷跡が残る。これまで思い出すまいと口をつぐんできたが「繰り返される米軍の横暴に耐えられなくなった」と憤り、米軍基地があるが故の事件・事故を二度と起こしてはならないと、初めて重い口を開いた。

 当時、大竹さんは最も多くの犠牲者を出した2年3組だった。この日は給食当番で空になったミルク給食のやかんを持って教室を出た直後に事故が起こった。

 「すごい音がした」という証言も多数あるが、衝撃音の記憶はない。「何かおかしい」と上を見たら、無数の火の粉が降ってきたことだけ覚えている。

 とっさに給食室に飛び込み、ひさしから辺りを見回すと教室が激しく燃えていた。慌てて校舎2階に避難しようとした時、何気なく水飲み場に目を向けると、全身が焼けて黒くなった女の子が水を飲んでいた。遺体安置所となった教室には小さな遺体が並べられた。全身やけどした仲良しの友人に先生が必死で水を掛ける姿を目撃した。

 「あの時は状況を理解できなかったが、今になって脳裏に焼き付いた光景の恐ろしさがじわじわと襲ってくる」

 その日、自宅へ戻って初めて、大竹さんは4年生の姉・重子さんと母親から墜落事故があったことや、自身が全身にやけどをしていることを知らされたという。

 母親に連れられ、学校で治療を受けた。それまで痛みを感じなかったのに「米軍の衛生兵にやけどした皮をはがされ、液状のものが出た時はとても痛かった」。

 その夜、米軍の衛生兵が陸軍病院に入院させるため、大竹さんの自宅にタンカを持ってやって来た。「米兵に捕まったら何をされるか分からない」と恐怖でとっさに逃げた。

 幸い母が看護師だったため、自宅で療養することが認められた。少しずつ体の傷は癒えたが、今も心の傷は深い。事故後、大竹さんが見舞金として受け取ったのはわずか50ドルだった。

 「米軍は60年前も今も変わらずわが物顔で町を闊歩(かっぽ)し、県民の背負ってきた苦悩を知らない」。宮森小での体験を一生話さないと決めていたが、相次ぐ米軍機による部品落下事故や女性殺害事件に、いたたまれなくなった。自然豊かな海を壊し、軍事強化を目指す辺野古新基地建設にも怒りが湧く。

 「基地あるが故の事件、事故を無くすには、沖縄だけでなく日本から全ての基地を撤去するしかない」。宮森の記憶を証言することで「基地に反対する人が一人でも増えてほしい」と願っている。(当銘千絵)

琉球新報社

最終更新:6/30(日) 12:48
琉球新報

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