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平成金融の「通史」だから見えること 新事実も次々指摘

7/4(木) 17:02配信

ニュースソクラ

【ニュースソクラ編集長インタビュー】『平成金融史』の著者、西野智彦氏に聞く

 『平成金融史 -バブル崩壊からアベノミクスまで』(中公新書)という地味なタイトルの本が売れている。

 記者として金融バブルを見てきた著者の渾身の一冊だ。岩波からすでに出版されている3冊のドキュメンタリーに酔ったファンが、飢えを癒すように買っているのだろう。執筆の背景を著者自身に語っていただいた。(聞き手はニュースソクラ編集長、土屋直也)

 ――『平成金融史』とはずいぶん外連(けれん)味のない、淡白なタイトルをつけられたな、あまり売る気がないみたいだな、と思いましたが、実際には売れていて版を重ねていますね。なぜ、平成金融史を書きたいと思われたのですか。

 経済の動きと改元とは本来関連がないのですが、たまたま平成の始まりにバブル崩壊があって、平成の30年は経済敗戦の処理がずっと続いた期間でした。生前退位という形で平成が幕を閉じることになって、まとめておくにはよい機会だと思ったのです。

 平成のとばくちだった平成2年にある金融当局の幹部から戦前の有名な経済ジャーナリストである高橋亀吉さん(*注)の『昭和金融恐慌史』をもらって、読んでおいた方がいいと言われました。

(*注:高橋亀吉は、戦前最も有力なエコノミスト。石橋湛山、小汀利得らと共に、旧平価での金解禁に反対したことで知られる)

 読んでみると、へえー、そんなこともあったのか、という驚きがありました。しかし、まさか現代の日本で同じようなことが起こるとは思いもしませんでした。それが鏡に映ったかのように、似たような出来事が次々と起こった。

 自分が高橋さんの本をなんどか読み返した時のような感慨を後から来る方々にも感じてほしい。どうしても書き残しておきたかったのです。

 時事通信では金融を担当する日銀記者クラブから大蔵省の記者クラブと異動し、TBSに転職してからも、海外勤務も地方勤務もなく東京にずっと居続けました。当時、取材をしていた人はたくさんいましたが、ずっと東京で金融動乱を間近に見続けた記者はあまりいません。それで(書き残すことが)自分の役割ではないかと思うようになったのです。

 ――バブル崩壊の過程での政策決定のありように関する本は過去に共著も含め岩波書店から3冊だしていますね。今回は続編でもあるのですか。

 最初の『検証 経済失政』を出したのがちょうど20年前の1999年で、2冊目の『検証 経済迷走』が2001年、最後の『検証 経済暗雲』を出版したのが2003年ですから、その後のりそな救済やリーマン危機、アベノミクスにはまったく触れていません。

 今回、そのあたりを改めて検証しました。たとえば、リーマン危機の直後に日本法人を法的処理に導こうとした説得工作や、安倍首相が2%の物価目標の達成時期を取り下げるよう黒田日銀総裁に暗に求めたくだりなどは、どのメディアも伝えていない新事実だと思っています。

 ただ、新しい時代を書き加えるだけでなく、過去に書いた時期も上書きしておきたいとも思っていました。出版社は通史では売れないと思ったのか、なかなかうんと言ってくれなかったのですが、わがままを通して「通史」にしてもらいました。まずまず売れているのでホッとしています。

 ――上書きしたといわれる部分でいうと、金融システム問題の頂上ともいえる1997年11月の山一証券の自主廃業の際、日銀が特別融資を決断するところはちょっとした驚きでした。福井日銀副総裁(当時)が強硬に反対し、営業局の証券課長が必死で実施を主張したのは知らなかった。日銀特融は焦げ付きますが、後から考えれば特融なしの山一倒産はより大きな混乱を引き起こしかねなかった。私には福井さんらしくない判断にも思え、あれっと思いましたね。

 山一特融については何か大きな葛藤が日銀のなかにあったのではないか、でなければ説明がつかないという思いがありましたが、前の著作の段階では十分には解明できませんでした。今回調べ直して、分かってきたと思います。

 ――この部分での主人公ともいえる方へのシンパシーというか、思い入れが西野さん自身にあるのではないですか。

 金融危機のパートでは大蔵省の長野証券局長(当時)も特融出動であの手この手で日銀を説得することを書きました。出てくる人たちがその後、官僚への接待疑惑の中心人物のように言われ、退任させられるなど、組織防衛の「いけにえ」になった面もあると感じています。山一の部分に限らず、何人かの方々から、「平成金融史は、罪を背負わされた方々への鎮魂歌ですね」と言われました。

 ――登場人物が匿名と実名とに分かれていますが使いわけに基準はあるのですか。

 できるだけ実名で記録しようとしましたが、一方で固有名詞の数が増えすぎないように留意しました。当局者の実名が次々と出ると、一般の方には読みにくくなるだけですから。それでも100人ぐらい残ってしまいました。

 分量も1・5倍書いたのを圧縮していきました。その過程で名前も削っていきました。細かい注釈は掲載できなかったのですが、個々の記述には一定の根拠があります。インタビュー、内部文書、議事録、当事者の日記や手帳などから得ています。

 ――通史として平成金融史を読ましていただくと、改めて大蔵省(現財務省)がいくつかの重要な局面で失政をしていたなあ、と受け止めましたね。

 大蔵省に対しては世の中にもともと過大評価があったのではないでしょうか。昭和40年代のニクソンショックやそれに続く狂乱物価などにも、うまく対応できていたのか疑問です。平成の初期にはそれが色濃く出て、戦略なく場当たり的に動いてしまう。根拠のない楽観主義に陥っていたと思います。

 半藤一利さんの著作を読むと、根拠なき楽観は旧日本軍にも共通するし、遡ればペリー来航前の徳川幕府にもあった。オランダから来航の情報を得ていたのにそれを生かせなかった。日本には一種独特かつ伝統的な楽観主義があるのではないかと感じました。

 ――宮沢首相(当時)にも問題意識は的確なのになぜ、早期に実行できなかったのかという感慨は沸きますね。1990年代前半に首相だった時に金融システムへの公的資金の注入を言い出しながら、あっさりおりてしまう。また、90年代後半に蔵相として金融危機にあたったときも、必死で日本長期信用銀行の倒産を回避しようとしながら、最後はあっさり降りています。

 先の展開が見えてしまうとジタバタしてもしかたがない、とあっさり引き下がる淡泊なところが日本のエリートにはありますね。これは複数の人が言っていますが、宮沢さんは戦後最高の知性であり、参謀として優秀だったが、難局を突破するリーダーとしてはどうだったのかということなのでしょう。

 ――日本の場合、政策の発動が小刻みで逐次投入だったというのが『平成金融史』のなかにもでていますね。

 月並みかもしれませんが、経済的、社会的混乱を極力回避したいという要請が日本では強いのではないでしょうか。だから大きな問題の解決には途方もない時間がかかる。リーマン危機の時の米国のように世界中に迷惑をばらまきながらも1か月のうちに公的資金投入にまで行くような荒業は日本にはできません。文化の違い、価値観の違い、それに国力の違いのようなものもあるのでしょう。

■西野智彦(にしの・ともひこ)
 1958年生まれ。時事通信社やTBS報道局で、日本銀行、首相官邸、大蔵省、自民党などの取材を担当。「筑紫哲也NEWS23」「報道特集」のプロデユーサーを務めた。主な著書に、『検証 経済失政 誰が、何を、なぜ間違えたか』(共著、岩波書店)、『検証 経済迷走ーーなぜ危機が続くのか』『検証 経済暗雲ーーなぜ先送りするのか』(いずれも岩波書店)。

■土屋 直也(ニュースソクラ編集長)
日本経済新聞社でロンドンとニューヨークの特派員を経験。NY時代には2001年9月11日の同時多発テロに遭遇。日本では主にバブル後の金融システム問題を日銀クラブキャップとして担当。バブル崩壊の起点となった1991年の損失補てん問題で「損失補てん先リスト」をスクープし、新聞協会賞を受賞。2014年、日本経済新聞社を退職、ニュースソクラを創設

最終更新:7/4(木) 17:02
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