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【あの夏の記憶】鳴りやまない電話に「座布団を…」 アイドル球児だった定岡氏の喜びと苦悩

7/17(水) 10:10配信

Full-Count

1974年の夏の甲子園ベスト4、準々決勝では原辰徳らの東海大相模に延長15回の死闘

 甘いマスクと好投で夏の甲子園を沸かせたプロ野球解説者・定岡正二氏が、熱狂の渦中にいた45年前の夏を振り返った。2年夏に続き、鹿児島実で甲子園に出場した1974年、3年生エースとして、鹿児島勢初めてのベスト4進出に貢献。帰路に就くと、世界はまるで変わっていた。“アイドル球児”にしかわからない驚きや苦悩を告白。また注目を浴びてプロの世界に進んだ後輩たちへ“エール”を送った。

【動画】「自分が自分じゃなくなる瞬間があった」アイドル球児だった定岡正二氏が振り返る夏の熱投と球児へのエール

「鹿実が甲子園に行って、大丈夫なのか?」

 甲子園を戦う前に定岡氏はこんな言葉を耳にしたという。鹿児島商・堂園喜義(元広島)が九州ナンバー1投手と呼ばれ、そのチームを下しての出場。当時の鹿児島勢には“1回戦の壁”があり、多くは望めない――。そんな評価だった。

「見送りは(西鹿児島)駅に5人くらいでした。何とか勝ってやろうと思いましたね」

 県民のほとんどがベスト4なんて予想もしていなかった。しかし、快進撃は続いた。初戦の佼成学園(東京)、2戦目(3回戦)の高岡商業と定岡氏は連続完封。準々決勝で現・巨人監督の原辰徳(1年)、現・東海大甲府監督の村中秀人(1年)のいた東海大相模と延長15回の死闘を演じた。213球を投げ、勝利。しかし、準決勝の防府商戦では、スライディングをした時に右手を負傷し、途中降板。最後までマウンドに立つことはできなかった。

「でも、やりきりましたよ。僕がマウンドを降りたおかげで2番手の後輩・堂園(一広=鹿児島商・堂園喜義の弟)がマウンドに立つことができたので、それはそれでよかったです」

帰郷後は信じられないくらいの人だかり「まるでドラマですよ、もう」

 鹿児島実ナインは帰路に就いた。下馬評を覆す奮闘ぶりに定岡氏は「少しはほめられるかな……」と思いながら、故郷へ向かう新幹線に乗った。

 目的地に近づくに連れて、異変に気が付いた。

「止まる駅でホームからみんなが僕らに手を振っていました。西鹿児島駅に近づくに連れて、人が多くなりました」

 出発時は5人くらいだったが、帰郷後は信じられないくらいの人だかりだった。報道では3000人などとされているが「いや、それ以上だったと思います。まるでドラマですよ、もう」

 自宅に戻ってもフィーバーぶりは収まらず、家の電話が鳴りやまなかった。どこからか電話番号を知ったファンからだった。NPB球団や、スカウトからの連絡もたまに混ざっているため、電話線を引っこ抜くわけにもいかなかった。

「女の子と電話で話したことなんてないから、うれしくて話し込んじゃった時もありました。東京の子の東京弁みたいな感じが良くて(笑)。ただ、夜中になっても鳴りやまなくて、うるさすぎましたね。大事な電話もかかってくるので、電話線を抜けないので、座布団を5、6枚、電話の上にかぶせて、音を抑えていました」

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最終更新:7/17(水) 18:54
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