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【あの夏の記憶】「本当は鹿実に行きたくなかった」定岡氏の心を動かした身近で最大のライバル

7/18(木) 11:05配信

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鹿児島実3年時の1974年夏、東海大相模と延長15回の死闘を制し4強入り、同年秋ドラフト1位で巨人へ

 甘いマスクと好投で夏の甲子園を沸かせたプロ野球解説者・定岡正二氏は、2年夏に続き、1974年夏の3年夏も鹿児島実で甲子園に出場した。3年生エースとして、鹿児島勢初めてのベスト4進出に貢献し、後に巨人からドラフト1位の評価を受けた。しかし、元々は鹿実にもプロにも行く気はなかったという。身近にいた存在が最大のライバルが「心に炎を付けた」と振り返る。

【動画】「自分が自分じゃなくなる瞬間があった」アイドル球児だった定岡正二氏が振り返る夏の熱投と球児へのエール

 その存在は3歳差の兄で元南海内野手の智秋氏(現・柳ヶ浦監督)。小学校から一緒に野球をし、ずっとその背中を見ていた。兄の同級生とも一緒に野球をしていたため、他のメンバーとセンスが違うことも容易に分かった。雲の上の存在だった。

 だから、進学先を迷っていた。

「兄ちゃん、すげぇ~な~と思って見ていましたよ。後にプロからドラフトを受けるような選手ですから、比較されるのが嫌でした。本当は鹿実に行きたくなかった。他の鹿児島県内の学校に行きたかったんです……。でも、行ってよかったです。甲子園に出場できましたから」

 智秋氏が中学3年生の時、自宅に当時の鹿実・久保克之監督(現・鹿児島実名誉監督)がやってきた。小学校から帰ってきたところだった正二氏も名将と目が合い、挨拶をした。

「監督はたまたま、兄のスカウトで来ていました。僕は、ただの弟なのに『お前も鹿実に来いよ!』と言われまして……。向こうにしてみれば何もないでしょうが、僕にとっては印象に残る出来事でした」

「どこかで兄をライバルと思うようになってきていた」

 兄の代は71年夏・鹿児島県決勝で敗れ、あと1歩のところで甲子園出場を逃した。

 兄貴超えをしたい――。そんな心が芽生え始めた時に、今度は自宅に大学や社会人野球のスカウトが兄を獲得するためにやってきた。そうしているうちに、プロからドラフト指名があるかもしれないという驚きの事態に発展。南海ホークスにドラフト3位で指名され、プロのスカウトも自宅にやってきた。

「美味しい手土産を持ってきて……。子供だからそれだけでも、うれしかったです(笑)。近所にだって、プロ野球選手なんていない遠い世界なのに、家族からプロ野球選手が出るなんて……。どこかで兄をライバルと思うようになってきていたので、そこで兄よりももっといい選手になりたいって、(同じ風に進もうという気持ちが)芽生えたかもしれません。心に炎が付きました」

 兄の実力がわかっていたからこそ、自分がどうすべきかを考えることができた。そんな小さな炎がモチベーションとなり、道は拓けていった。

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最終更新:7/18(木) 11:05
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