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行動する政治学者が該博な知識を緻密に盛り込んで書いた「歴史」地図―北岡 伸一『世界地図を読み直す:協力と均衡の地政学』山崎 正和による書評

7/20(土) 6:00配信

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◆行動する政治学者の教養

北岡さんは行動する政治学者である。東大で政治学を教え、多くの研究書とともに啓蒙書の筆を執り、政治学の教科書まで上梓(じょうし)した履歴は完璧に近い。だがこの人は東大在職中に国連大使を務め、現在は国際協力機構(JICA)理事長の重責を負い、これまでに訪れた国は一〇八カ国、理事長として旅した国だけでも五〇カ国という行動家である。

東大退職後は暫(しばら)く国際大学の学長に任じ、世界の留学生を育てるという、学問と国際交流の重なり合う仕事にも就いた。面白いのはこの人の場合、略歴の一々が整合的に繋がって、現在の活躍を支えていることだろう。東大時代の留学生がウクライナの外務省にはいり、訪れた恩師を出迎えたばかりか、まもなく東京に駐在するという。またツバルでもサモアでも、さらにタジキスタンでも国連大使時代の相手国代表が要職に就いており、JICA理事長と久闊(きゅうかつ)を叙することになる。

この本はそうした著者が身をもって世界に触れ、該博な知識を緻密に盛り込んで書いた「歴史」地図である。地図は見えるが、歴史は見えない。読んで胸躍るのは、ここにはその見えないものが活写され、見えるものの姿を奥深くしているからである。とりわけ魅惑的なのは、著者が知的な俊英であるだけでなく、教養豊かな文化人でもあって、そのまなざしが各国をそれぞれ個性的に捉えていることだろう。

端的にそれが表れたのがウクライナとアルメニアの章であって、前者では作曲家のプロコフィエフ、ピアニストのホロヴィッツとリヒテル、ヴァイオリニストのオイストラフとミルシュタインが紹介される。驚いたのは、戦前一世を風靡(ふうび)したエルマン・トーン、そのミッシャ・エルマンもウクライナ人だと教えられたことである。アルメニアではハチャトリアン、カラヤンらが挙げられるが、どの場合も著者がそれらの音楽家を真に愛していることが伝わってくる。

芸術への愛は直観的であり、対象への距離をゼロにするものである。著者はどの国を訪れても必ず心の琴線に触れる対象を発見し、その国と人との距離をゼロにする才能に恵まれている。ロシアのウラジオストクを訪ねれば、大黒屋光太夫に遡(さかのぼ)る日ロ交渉史を想起するのはもちろん、めざとく町の大学の校庭に佇(たたず)む詩碑を発見し、かつてこの地を経て欧州に向かった与謝野晶子の恋心を偲(しの)ぶのである。

これは対象国が必ずしも豊かではなく、瘴癘(しょうれい)の地や紛争国であっても変わらない。コロンビアを訪ねた著者は内戦の惨劇の跡を目撃し、政府に地雷除去の支援を申し出ながら、現地を描く文章は意外に明るい。ここでしか生きられない現地人にとって絶望は無意味であり、それと一体化して国情を見る著者にとっても同じなのだろう。そしてこの国で、著者はフェルナンド・ボテロ美術館を訪れ、作家ガルシア・マルケスに思いを馳せる。

この本に登場する国は、ウガンダ、アルジェリア、南スーダン、エジプト、ザンビア、マラウイ、ブラジル、パプアニューギニア、ベトナム、ミャンマー、東ティモールなど、文字通り地球全体に渉(わた)っている。だがこの本はそれらを大仰に鳥瞰(ちょうかん)し、現代世界の政治的全体像を描くことをみずからに禁じている。書かせればこの人を措(お)いてない適任者が、あえて米中の宿命的葛藤にも、主導国不在の先進自由社会についても触れていない。

その代わり、全篇に浮かび上がるのは、人々が泣き笑い、伝統文化に親しむ生活空間としての国と地域である。それを眺める著者の眼は、いわば温かい現実主義に貫かれている。国土の地形構造から分断を招きやすいタジキスタンについては、現在の統治者がいささか権力主義的であることを咎(とが)めない。民主化途上のミャンマーに関しては、そのロヒンギャ問題で政府への制裁を急がず、当面、被害者の救済に全力を集中しようと判断する。

あくまでも建設的に、統治者の感覚で世界を見る北岡さんだが、そうして見渡すと現実は思ったより希望が持てることがわかる。

私が喜んだ報告は数多いが、第一はエジプトに「日本式小学校」を輸出する話である。大統領の要請のもと、JICAの援助で、「生徒が教室を掃除する」小学校を全国に新設するという。日本人の公徳心、それを養う躾(しつけ)教育に感銘を受けた外国人が、日本文化を根底から受容しようというのである。

もう一つ嬉しかったのは日本国内の話で、過疎の島、島根・隠岐の海士町がJICAの支援を受け、国際交流に活路を見出している現況である。要は外国の留学生を町に誘い、教師も町外から招くアイデアだが、その教師に青年海外協力隊の卒業者が参加したのが鍵となった。アイデアも成功したが、北岡さんが共感したのは関係者の根性である。町では唱歌「故郷」を歌うとき、「志を果たして、いつの日にか帰らん」の一節を変え、「志を果たしに」と歌うのだそうである。北岡さんの共感は、まさに私の共感でもある。

[書き手] 山崎 正和
1934(昭和9)年京都府生まれ。劇作家、評論家。
中央教育審議会会長。文化功労者。京都大学文学部哲学科卒業、同大学院博士課程修了。関西大学教授、大阪大学教授、東亜大学学長等を歴任。著書に『世阿弥』『鴎外 闘う家長』『社交する人間』『装飾とデザイン』等。

[書籍情報]『世界地図を読み直す:協力と均衡の地政学』
著者:北岡 伸一 / 出版社:新潮社 / 発売日:2019年05月22日 / ISBN:4106038404

毎日新聞 2019年6月23日掲載

山崎 正和

最終更新:7/20(土) 6:00
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