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バスキアとは何者か? 「黒人アーティスト」というレッテルを嫌った男

7/20(土) 8:00配信

美術手帖

忘れられかけたバスキア

1988年の夏、当時ニューヨークに住んでいた僕は、27歳の若さで亡くなったジャン=ミッシェル・バスキアの死を『New York Post』が報じた小さな記事で知った。その前年2月に亡くなったアンディ・ウォーホルのときは、同じ新聞の表紙に大々的に報じられていたのに比べずいぶんと控えめな扱いだったが、正直なところそのことにさほど驚きはしなかった。というのも、当時のニューヨークのアートシーンはジェフ・クーンズやピーター・ハリーたちによる「NEO GIO」と呼ばれていた“次世代”作品が席巻していて、80年代前半に活躍したバスキアの存在はすでに薄くなっていたこともあって、少し前までは時代の寵児と祭り上げられていたひとりの黒人アーティストを「27歳の若さでの死」と哀れむように、その死因を報じたに過ぎなかったのだ。

そして、彼が亡くなってから4年が経った1992年に、ホイットニー美術館のキュレーターだったリチャード・マーシャル(後にバスキア財団とオフィスをシェアしていた人でもある)が、同美術館において大規模な回顧展を企画し、その展覧会カタログにバスキアの絵画に対して、いままでになかった深い洞察と鋭い検証がなされた。それが契機となりバスキア作品は軒並み評価が高まっていったわけだが、その流れを受けて僕は東京でバスキア展を企画し、そのための準備として彼のことをもっと理解したいという一心で、生前のバスキアのことを知る人たちにインタビューを行っていったのだった。

バスキアがクラリネット奏者として参加していた「GRAY」のメンバーたち、初個展の機会を与えたアニナ・ノセイ、早い段階からバスキアの才能を高く評価していた編集者のグレン・オブライアン、ミュージシャンで俳優、そして画家でもあったジョン・ルーリー、バスキアをメジャーレベルに引き上げたメアリー・ブーンやブルーノ・ビショッフバーガーといったギャラリストたち、後に『バスキア』という作品で映画監督デビューを果たしたジュリアン・シュナーベル、ガールフレンドたちや父親のジェラードからも話を聞くことで、人々の記憶から薄れ始めていた生前のバスキアのリアルな姿を僕なりに浮かび上がらせてみたかったのだ。

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最終更新:7/20(土) 8:00
美術手帖

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