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択捉島に松前、盛岡藩士らの墓 江戸時代後期の警備拠点 残存が判明

7/22(月) 11:10配信

北海道新聞

「貴重な歴史遺産」約20基

 【ユジノサハリンスク細川伸哉】北方領土の択捉島に、江戸時代後期にロシアの南下に備えて警備に当たった東北地方や松前藩の藩士らの墓が残されていることが、北海道新聞の現地取材で分かった。通商を求めるロシアとの係争が本格化した19世紀初頭から、1855年の日露通好条約で国境画定するまでの時期に設置されたとみられる約20基で、専門家は「貴重な歴史遺産だ」として保全の必要性を訴えている。

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ユジノサハリンスク支局の助手が取材

 北海道新聞ユジノサハリンスク支局のマリヤ・プロコフィエワ助手が6月中旬、3年前に墓を発見したというロシアの水産会社経営者の案内で取材した。

 墓は択捉島中部の振別(ふれべつ)で見つかった。ロシアは1807年、江戸幕府が開港要求を拒絶したことを受け、択捉島の紗那を襲撃。その後、振別が択捉島の警備拠点となり、蝦夷地(えぞち)を直轄領とした幕府が東北諸藩に警備を命じた。戦前まで日本の漁場があったが、現在は人は住んでいない。

 海岸から約700メートル内陸のササが生い茂る森の中で、約40メートル四方に墓石などとみられる19基が点在。このうち13基に名前や和暦などの文字が刻まれていた。大きさは50センチ~120センチ。

「南無阿弥陀仏」「施主 盛岡」とも

 このうち最も年代が古いと考えられるのは和暦で「文化九壬申歳(みずのえさるどし) 七月十三日」と刻まれた石で、西暦1812年に当たる。日ロ関係は前年の11年にロシア艦長ゴローニンが国後島で日本に捕らわれる一方、12年にロシアが報復として豪商高田屋嘉兵衛をカムチャツカに連れ去る事件が起きるなど係争が激化していた。

 この石には「南無阿弥陀仏」の旧字体とともに「施主 盛岡」と記され、蝦夷地に出兵していた盛岡藩(南部藩)との関係が浮かぶ。写真で石を分析した、もりおか歴史文化館(盛岡市)の熊谷博史学芸員(38)は「盛岡の藩士が、はるか北方の島で命懸けで警備に当たっていた歴史を物語る痕跡で貴重だ」と語る。

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最終更新:7/22(月) 11:10
北海道新聞

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