ここから本文です

永井隆「長崎の鐘」 浦上の人々は屠られたのか 【あの名作その時代シリーズ】

8/6(火) 12:00配信 有料

西日本新聞

日本二十六聖人の殉教から410年を記念するミサ。殉教の歴史を受け継ぐ風土が永井の思想を形成した=2007年、長崎市西坂町

 「あの名作その時代」は、九州を舞台とした作品、または九州人が書いた著作で、次代に残すべき100冊を選び、著者像や時代背景、今日的な意味を考えながら紹介するシリーズです。西日本新聞で「九州の100冊」(2006~08年)として連載したもので、この記事は07年2月18日付のものです。

**********

 シャギリの音が鳴り響く諏訪神社の秋の大祭「長崎くんち」が近づくと、演(だ)し物を奉納する踊町(おどりちょう)の家々は、衣装や道具、祝儀や家宝を恭しく並べた座敷を開けっぴろげて道行く人を招き入れる。今や観光の見どころともなった庭見世(にわみせ)という習わしは、キリシタン禁制の世にあって十字架や祭具など何も隠してはおりませんとつまびらかにする年中行事でもあった。

 お諏訪さんをたたえる港町長崎と、二百五十九年に及ぶ弾圧に耐え、仏徒を装い信仰を守り伝えた北部の浦上(うらかみ)。この対比を永井隆は「エロスのまち長崎」「マリアのまち浦上」と称した。そして一九四五年八月九日、原子爆弾ファットマンは、浦上上空五百メートルに炸裂(さくれつ)したのである。

 浦上信徒の山田市太郎は永井にこう尋ねる。「誰に会うてもこういうですたい。原子爆弾は天罰。殺された者は悪者だった。生き残った者は神様からの特別のお恵みをいただいたんだと。それじゃ私の家内と子供は悪者でしたか!」

 永井は答える。「さあね、私はまるで反対の思想をもっています。原子爆弾が浦上に落ちたのは大きなみ摂理である。神の恵みである。浦上は神に感謝をささげねばならぬ」 本文:2,625文字 写真:1枚

続きをお読みいただくには、記事の購入が必要です。

すでに購入済みの方はログインしてください。

  • 税込220

    PayPay残高使えます

サービスの概要を必ずお読みいただき、同意の上ご購入ください。 購入後に記事が表示されない場合はページを再度読み込んでください。 購入した記事は購読一覧で確認できます。

西日本新聞

最終更新:8/6(火) 12:00
西日本新聞

おすすめの有料記事

PayPay残高使えます

もっと見る