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菊池一族・動乱の世の盛衰 貴重史料で足跡たどる 熊本県立美術館本館 

8/14(水) 13:07配信

熊本日日新聞

 中世の肥後で一大勢力を築いた菊池一族は、菊池地域を拠点に11~16世紀に動乱の世を生き抜いた。武力に加え、一族の存在をかけて転身を図るしたたかさも持ち、南北朝時代には南朝方の主軸を担うなど歴史的に大きな役割を果たした。熊本県立美術館本館で開催中の「菊池川二千年の歴史 菊池一族の戦いと信仰」展(同館・熊日など主催)は、国重要文化財など貴重な史料でその足跡をたどる。(魚住有佳)

 菊池一族は平安から室町まで25代続いた。その祖は大宰府の高官として活躍した藤原政則とされる。菊池地域の豪族と結合し、菊池川下流域へ勢力を展開していったとされる。

 一族は源平合戦で平氏方に与[くみ]する。承久の乱(1221年)でも後鳥羽上皇方として鎌倉幕府と戦い、所領没収などの憂き目に遭っている。

 しかし、鎌倉期後半に書かれた「菊池武房書状」(国重文)は、10代武房が幕府の重鎮・北条政村死去に伴い知人を弔問に向かわせる旨を伝えており、幕閣との親しい間柄をうかがわせる。竹崎季長[すえなが]が描かせた「蒙古襲来絵詞[もうこしゅうらいえことば]」(大矢野家本)下巻には、武房率いる一族軍勢が勇壮に描かれている。当時若干の浮沈はあったものの、肥後随一の武家として一定の所領と勢力があったことが推測される。

 とはいえ、幕府への対抗意識は消えていなかったのだろう。12代武時は後醍醐[ごだいご]天皇らによる倒幕運動に従い、1333年3月、博多の鎮西探題館を襲撃し憤死。足利高(尊)氏らによる京都六波羅探題襲撃などがその後続き、流れは幕府滅亡へ一気に傾く。前期展示された「菊池武朝申状写」では、楠木正成が武時を「倒幕の第一の勲功」とたたえている。13代武重はこの功績で建武政権から国司に任じられる。

 続く南北朝の動乱期、菊池氏と楠木正成、新田義貞ら南朝軍と、足利尊氏ら北朝軍との激突を描いた「湊川合戦図屏風[みなとがわかっせんずびょうぶ]」(6曲1双)は縦約1・6メートル、幅約3・7メートルの大作。海上を埋め尽くす足利軍、これと対峙する新田勢、敗れて自害しようとする正成らが描かれている。南北朝の動乱を題材にした数少ない作品とされ、入り乱れる軍勢は、世に名高い合戦が眼前で繰り広げられているような迫力を持つ。

 南朝勢はその後弱体化するが、九州では後醍醐天皇の子・懐良親王が派遣されると、15代武光を中核にした南朝勢が大宰府を制し全盛期を築いた。

 室町後期になると、21代重朝の死去に伴い、年少の能運[よしゆき](肖像画が展示中)が跡を継ぐと家臣団の分裂が起き一族は衰退。能運は1504年に急死し、菊池氏最後の正系が途絶える。後継者争いは、肥後への影響力を強めていた大友義長の次男・義武が養子に入ったことで一度は決着するが、大友氏に反旗を翻したことで義武が暗殺され、一族の歴史は終焉を迎える。

 ※展覧会は9月1日まで。

[菊池一族の戦いと信仰]

(2019年8月14日付 熊本日日新聞朝刊掲載)

最終更新:8/14(水) 13:07
熊本日日新聞

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