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19歳で戦死、紫電改パイロットの思いとは…胸ポケットに1枚の写真

8/14(水) 10:01配信

西日本新聞

 太平洋戦争の終戦からこの夏で74年。戦火を生き抜いた人の多くが鬼籍に入り、当時の体験を語れる人は極めて少なくなった。昨年から大分県竹田市の山中で、旧日本海軍の戦闘機「紫電改」の遺物とみられるガラスや鉄の破片約60点が相次いで発見されている。

【写真】米国のスミソニアン航空宇宙博物館に展示されている旧日本海軍の戦闘機「紫電改」

 この機のパイロットで、1945年5月5日に19歳で戦死した粕谷欣三さん=埼玉県入間郡三ヶ島村(現所沢市)出身=はどんな思いでこの機に乗り込み、戦場に向かったのか―。彼が所属した旧日本海軍の部隊「第343航空隊」の元隊員らの証言や関係資料から、若くして命を散らした一人の青年の思いに迫った。

 粕谷さんは、海軍が設けたパイロットの養成機関、飛行予科練習生(予科練)出身。

 海軍の兵士が軍服姿で帰省し、故郷の学校を訪れると、軍国教育を受けてきた子どもたちたちは羨望の眼差しを向けた。そうして、多くの少年が予科練を志願し、試験や身体検査、面接を受けた。競争率は70倍以上に達することもあり、合格者は「学校でも近所でも鼻高々だった」という。召集令状を受けて不本意ながらも兵役に就いた人とは随分と異なる心情だったとみられる。

 粕谷さんは予科練の「特乙1期生」だった。この期は、昭和18(1943)年4月に1585人が二等飛行兵として岩国海軍航空隊に入隊している。

 当時、戦況は既に緊迫していた。同じ4月に日本海軍の連合艦隊司令長官の山本五十六元帥が戦死。翌月にはアリューシャン列島のアッツ島で日本軍が全滅するなど、情勢は徐々に悪化していた。

 「とても勝ちよる風ではない…」。当時、早稲田大の研究所に勤め、戦闘機の翼などに使うジュラルミンの研究をしていた三宅清隆さん(94)=熊本県=は腹の中で思ったという。どういうルートで入手したのか今となっては不明だが、大学で米国の戦闘機の図面を見て、米国の兵器の優秀さを実感もしていた。戦争に負けるという危機感を覚えながら、三宅さんは後に予科練に入隊した。

 現代なら、旗色が悪くなった時点で日本は敗北宣言をするべきだったという考え方もできるが、当時の若者には「この戦争に勝たなければ、日本はどんな目に遭うか分からない」という危機感があった。三宅さんと同じ年頃の粕谷さんにも共通した思いだったはずだ。

 予科練は当初、3年間の教育と、1年間の飛行戦技訓練を課していたが、粕谷さんが所属した「特乙1期生」は10カ月~1年2カ月の短期教育だけで戦線に配置された。戦いが激しさを増す中でベテランが次々と命を落とし、十分な経験を積まないままのパイロットが実戦に投入されていった。「一人前になるには1000時間の飛行が必要だが、300時間で出されていた」と三宅さんは語る。

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最終更新:8/14(水) 13:35
西日本新聞

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