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「誰かを恨んだりはしない」 家族も名前も失った「原爆孤児」、自分のルーツを求めて

8/15(木) 10:00配信

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原爆で親を失った「原爆孤児」、調査によると広島には2000人いたとも6500人いたともされています。過酷な生活や差別などから、語られることの少ない彼らの実態。そうした中、被爆から74年、原爆で名前も失った1人の元原爆孤児の男性が自分のルーツを探し始めました。

■“原爆孤児”田中正夫さん
田中正夫さん(78)は4歳のとき自宅で被爆し、両親、兄弟、さらに自分の名前までも失ってしまいました。

田中さんは生まれつき耳が不自由だったとみられています。手話で当時の記憶を語ります。
「家の近くに比治山があった」「家族は5人くらいだったと思う」「朝ごはんを食べたあと被爆した」「たたみの下をくぐるように逃げて行って川に落ちた」

田中さんが被爆したとみられる広島市の比治山周辺。爆心地からは2キロ近く。東側は山が壁となり火災を免れましたが、西側はほとんどの家屋が全壊。半数の人が即死した町もありました。

「この川に落ちたと思う。必死に泳いでいた。川の中に落ちて潜って目に水があたって苦しかった。必死に顔をあげて一生懸命叫んで(兵隊さんに)助けてもらった」

川から助け出された田中さんは一時、比治山迷子収容所に保護されます。しかし、耳が不自由で話すことができず名前も定かではありません。引き取り手がないまま半年後、施設を移ることになります。それが「広島戦災児育成所」でした。

■広島戦災児育成所
僧侶の山下義信さんが1945年12月に7人の孤児を受け入れ、五日市町(現在の広島市佐伯区)に開いた「広島戦災児育成所」。一角にあった「童心寺」というお寺では亡くなった両親のため、毎朝、お経が上げられていました。

広島戦災児育成所で育った久保田敬子さん(82)は、生活の全てを職員と共にしていたと振り返ります。
「みんな部屋で助け合ってやっていた 食事当番を順番にやったりして早く行けばごはんが一口でも多いか見たらわかるから、みんな食べたいばかりだから食事の当番といえばみんな喜んでいた。先生が頼りだから、私の行くところはほかにないし」

育成所の合言葉は「父となれ、母となれ」。当時の記録映画には「1人の女性保育士を中心に5~6人の子どもを1室に収容して職員を『お母さん』と呼ばせ、できるだけ家庭的な雰囲気を心がけている。だが、どんなに優遇されても親のない悲しみは決して癒やされるものではないだろう」と紹介されていました。

久保田さんは「みんながそういう境遇の人がいたところだから、いることができたと思う。そうじゃなかったらいることはできなかったかもわからない。みんな同じ仲間だから」と育成所へ感謝の気持ちを示し、涙ぐみました。

20年の間に170人に上る孤児たちが、広島戦災児育成所で“家族”として暮らしたのです。

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最終更新:8/15(木) 10:00
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