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愛され続ける「崎陽軒のシウマイ」、社長が悩んだ時にはっとさせられた言葉

8/15(木) 9:46配信

ニュースイッチ

「真にローカルなるものがインターナショナルになりうる」

 日に2万個以上を売り上げる駅弁「シウマイ弁当」や「昔ながらのシウマイ」で知られる崎陽軒。いずれも横浜名物としての不動の地位を誇る人気商品だ。近年は婚礼事業にも進出。さらには日本人の味覚にあった新たな中華菓子を開発するなど、新境地を切り拓いている。時代が変化する中で、百年企業として成長を遂げてきた背景には、徹底したローカル戦略があった。

 1908年、横浜駅構内の食料・雑貨の売店として創業した崎陽軒だが、意外にも創業当初、シウマイを扱っていなかった。駅弁は販売していたものの、当時の東海道線の下り路線は、始発の東京駅で駅弁を購入する乗客が多く、横浜駅での販売は芳しくなかった。

 横浜は幕末に開港した先進的な都市でありながらも東京への通過点に過ぎず、街を代表する名産品が存在しないことも悩みのタネだった。

 「名物がないなら作ればいい」。初代社長である野並茂吉氏が目をつけたのが、港町で中華街を擁する横浜らしさを象徴するシウマイだった。

 ところが、シウマイを弁当として販売する上で致命的な課題が立ちはだかる。冷めると美味しさが損なわれてしまうのだ。そこで地元中華街の点心職人をスカウトし、試行錯誤の末に完成したのが、具材の豚肉にホタテの貝柱を加えた「冷めてもおいしいシウマイ」。その製法は、いまなお受け継がれている。

 苦労の末に作り上げたシウマイだが、発売当初の売れ行きは芳しくなかった。全国的にその名を知らしめることになったのは、商品PRのために導入した「シウマイ娘」。

 赤いチャイナドレス風の制服に身を包んだ販売員は話題を呼び、当時、毎日新聞で連載されていた獅子文六の小説「やっさもっさ」にも登場。この小説は松竹によって映画化され、シウマイ娘には桂木洋子、相手役には佐田啓二という当時のスターによる共演も話題を集めた。

迫られる決断

 茂吉氏の孫であり3代目となる現社長の野並直文氏は慶応義塾大学卒業後、崎陽軒に入社。最初に任されたのは、弁当のご飯を炊く「シャリ屋」と称される係だったという。「シウマイの味を引き立てるのはおいしいご飯があってこそ。あれはいい経験だった」(野並社長)。その後、慶応大学大学院で経営の学びを深め、レストラン経営などの現場経験をさらに積んだ。

 社長就任を前に、先代社長である父・豊氏から大きな選択を迫られる。「全国展開すべきか、ローカル路線でいくか」。悩む直文氏の背中を押したひとつが、当時、大分県知事として「一村一品運動」を提唱していた平松守彦氏の言葉。「真にローカルなるものがインターナショナルになりうる」。「この言葉にはっとさせられた」(直文氏)と述懐する。

 以来、横浜を中心とする地域密着型企業としての経営姿勢を鮮明にする。シウマイの全国販売から段階的に撤退し、地元でしか販売しない戦略に舵を切る。結果として「ご当地感」が商品ブランドを高め、販売増につながった。直文氏は「これぞ商売の醍醐味」と語る。

 伝統を守るだけではなく、新たな市場創出にも挑む。新業態やスイーツへの挑戦によるミドル層の顧客開拓の取り組みはその一環だ。例えば中国菓子の一種である月餅は、サイズが大きく油分も多いため、日本人の味覚に合わない面もある。

 そこで日本人が食べやすいよう、外側の皮をラードではなくバター風味に、中身のあんも和風にアレンジ。サイズも小さく手軽に食べられる崎陽軒流の月餅を開発した。売れ行きは好調で手応えを感じている。

 地域密着に重きを置く経営姿勢は、組織運営においても貫かれている。横浜市都筑区と東京・江東区にある工場は「パートさんが通いやすいように」(野並社長)と地の利に配慮。柔軟な勤務体系も導入し、長く働ける職場環境づくりに心を砕く。

 「名物がなければ作ればいい」-。その挑戦精神と徹底したローカル戦略は、疲弊する地域経済の中で何とか次の一手を打ち出そうと模索する全国の企業に、何らかの示唆を与える経営姿勢といえるだろう。

METI Journal

最終更新:8/15(木) 10:52
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