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《ブラジル》アマゾン日本人移民90年の歩み=(6)=ベレン在住 堤 剛太

8/17(土) 2:28配信

ニッケイ新聞

▼アマゾン地方と日本人とのつながり

 ところで、日本人移民が入植するまでアマゾン地方に日本人は誰も居住していなかったのだろうか?
 実は、1929年第1回アマゾン日本移民が入植した年には、同地方にすでに150名ほどの日本人達が居住していた記録が残っている。
 これらの多くは「ペルー下り」の人たちであった。ペルー下りとは、ペルー国へ移民した人達が、配耕先を逃亡してアンデスの山を越え、ブラジル側のアマゾン地方へと入ってきた人達の事を指す言葉である。
 ペルー国への移民は1899(明治32)年、ブラジル移民に先立つ9年前に開始されている。790名の第1回ペルー移民は、7カ所の耕地に配耕されて行ったが、上陸から52日後には紛糾の火の手が各耕地で発生し、ペルー到着から4ヵ月後には移民会社(森岡商店)の在ったカヤオに321名の脱耕者達が集まってきている。
 この脱耕の主な原因は、やはり耕地での奴隷同然の待遇であろう。その上、マラリアや黄熱病も追い討ちをかけるように蔓延し、最初の1年間で143名もの犠牲者を出している。それでも、ペルー国への日本人移民は中止されることなく次々に母国から送り出されてきている。
 耕地を逃げ出した移民たちの主な逃亡先は、ゴムブームに湧くアマゾン地方であった。ロンドニア、アクレー、アマゾニアそしてパラーへと、これらペルー下りの日本人達は定住の地を求めて移動して行った。
 ベレンの町に最初に居住したペルー下りの日本人は、1916年(大正5)頃で宮城県人の高橋庄助であった。その頃、川本清八、イト夫妻も市内に居住していた。川本夫妻は、3千メートル級のアンデス山脈を馬に荷を積み、徒歩で1カ月ほど掛けて越えボリビアへ抜け、そこからブラジル領のアクレーへ入り、ここから筏を組み、アマゾナス州へ移動した。
 マナウスから船でベレンへと渡ってくるまでに、7年間もの歳月を費やしていたのだ。川本夫妻は、ベレン市内から近郊のタパナンへと移り、この地を永住の地とし、長らく野菜栽培で生計を立てていた。
 イトさんが亡くなったのは1991年9月、95歳の生涯であった。この他、同じくベレン市内に居た江口保治、西原吉助、本郷勇等はアカラーでの開拓事業が開始されると、福原八郎に請われ、南拓移民会社の仕事に雇われている。ペルー下りの子孫は、今でもアマゾン地方の各州に存在する。何代にもわたり、混血が行われている事から外見での日系人の特色はほとんど無く、その日本の苗字でかろうじて日系で有る事が証明される。
 ベレンの町には、異色の人物が居住していた。ブラジリアン柔術の生みの親で「コンデ・コマ」こと前田光世である。前田は、講道館柔道の猛者で異種格闘技での戦いを世界各地で繰り広げ、1915年(大正4)に同じ講道館の佐竹信四郎共々ベレン入りしている。
 その後、佐竹はマナウスに活躍の場を求め、同地へ定住。前田はベレンを選び、1941年市内の自宅でその生涯を終えている。1926年5月、福原調査団がベレン港へ到着した際、パラー州側の要人と伴に桟橋で福原一行を出迎え、その晩年は日本人移民の事業にも深く関わっている。
 ちなみに、アマゾン地方へ初めて足を踏み入れた日本人について記してみよう。これまで、1890(明治23)年にシルコ・インペリアル・ジャポネス(日本帝国サーカス)」を引き連れマナウスの町で興行した、竹沢萬次郎という人物が最も古い記録かと思われていた。
 ところが、それより4 年前の1886(明治19)年11月7日付ジアリオ・ド・グランパラー紙に、「ナザレー祭り(注・ベレンの宗教祭)に日本人等がやってきて花火を打ち上げる」と、言う記事が有った。日本と言う国は、当時のベレン市民には馴染みがなかったのか「中国の近く」と、注釈までつけてある。
 僅か数行の記事だが、この日本人とは一体何者だろうか? しかも、製造した花火をベレンへと船に積み込み運んで来たのだろうが、どこでそんな物を作ったのだろうか? ブラジルへの日本人先駆者の一人である、鈴木貞次郎(南樹)が著した『埋もれ行く拓人の足跡』という本が有る。
 この本の中に、移住前史の時代にブラジルに居住していた日本人が紹介されている。軽業師だった竹沢萬次郎の名前は出てくるが、花火を扱うこの謎の人物については何も記されていない。アマゾンは、1885年以降ゴムブームで湧いていた。もしかすると、そんなアマゾンを舞台にひと儲けしようとヨーロッパや米国経由の船でアマゾンに乗り込んできた人物だったのかもしれない。

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最終更新:8/17(土) 2:28
ニッケイ新聞

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