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戦艦「榛名」の砲手 米軍襲来、甲板に遺体の山 「まるで生き地獄」 消えゆく戦争の記憶(3)/兵庫・丹波市

8/18(日) 8:00配信

丹波新聞

 兵庫県丹波市の松岡緑(みどる)さん(93)は、戦艦「榛名(はるな)」の対空砲手だった。昭和20年7月28日、広島県の江田島小用(こよう)海岸に停泊中だった「榛名」に水兵長として乗艦していた。同日、早朝より米軍艦載機など240機が襲来。戦闘中、上甲板に上がった松岡さんの目に飛び込んできたのは、まるで「生き地獄」のような惨状だった。

16歳、新兵器で特攻「熱望」

散乱した手足や頭、内臓垂らした仲間

 高知県出身。17歳で海軍少年兵を志願し、横須賀の海軍砲術学校などを経て「榛名」に乗艦。戦艦「武蔵」にも乗った経験がある。レイテ沖海戦などに従軍した。

 昭和20年7月28日当時、松岡さんは「一番砲塔」の四番砲手を任されており、上官の命令に従い砲撃に伴う作業に当たった。夕方ごろ、二番砲塔の砲手が負傷。応援に行くよう命令が下り、上甲板に上がったときだった。目の当たりにしたのは遺体の山だった。手足や頭が散乱し、ラッタル(階段)には内臓を垂らした仲間が絶命していた。「生き地獄としか表現しようがない。気が狂いそうだった」。

 その時、敵機が松岡さん目掛け機銃掃射をかけてきた。体を伏せた数十センチ先に、銃弾が数発撃ちこまれた。「おのれ、くそったれ」思わず叫び、敵機をにらみ上げた。初めて見た米兵は、ヘルメットをかぶっていなかった。

 夕日が落ちかけたころ、「榛名」は最期の時を迎えていた。退艦命令に従い中甲板まで上がると、20人ほどの負傷兵が横たわっていた。すでに浸水が始まっている。「助けてくれ」―。息も絶え絶えながら、刺すような視線が松岡さんに注がれた。動けない負傷兵の腹の上を通り、上甲板をめざした。「断腸の思いだった。これが戦場だと感じた」。

 退艦する寸前、目の前に1枚の黄色い布が垂れ下がってきた。無意識に引きちぎり持ち帰った。そして米軍の機銃掃射による弾丸も拾い上げた。いずれも今も保管しており、布には黒い重油の跡や血痕が残されている。

 「榛名」を失って以降、小用海岸近くのの小学校にとどまっていた。8月6日朝、仲間3人と海岸沿いに腰を下ろし、話をしていた。雲一つない日本晴れの空を「B―29」が飛んでいた。もはや珍しい光景ではなかったため、3人で眺めていたという。数分後、轟音が鳴り響き、電気がショートしたときのような閃光があった。「目がつぶれるかと思った。そしてキノコ雲が上がった。当時は原子爆弾など知らない。江田島の弾薬庫を爆撃されたのかと思った」と振り返る。

 戦後、姉が嫁いでいた丹波に移った。「戦争だけは絶対にしたらあかん」と語気を強める。「戦争をしてはならないという知識を国民が持たなければならない。そのために、戦争を知る人間が、当時のことを伝えなければと思っている」。

最終更新:8/20(火) 18:29
丹波新聞

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