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娘と漫才コンビ 三吾さんが振り返る“しんどかった日々”

8/19(月) 9:26配信

日刊ゲンダイDIGITAL

 父と娘という珍しい漫才コンビの三吾・美ユルの父・三吾さん(75)。芸人としてのデビューは大阪万国博覧会の時代だが、90年代に長女とコンビを組んでからは、しんどい日々があった?

  ◇  ◇  ◇

■大阪万博時代に華やかにデビュー

 浮世亭一門に入門して浮世亭三吾・十吾を組んで、初舞台が1969~70年の大阪万博です。電気通信館という昔の電電公社のパビリオンで、半年間ずっとイベントですわ。東京と大阪、他の地域ともつないで未来の電話、今でいうテレビ電話でやりとり。東京にいるトリオ・ザ・パンチさんが「そちらにいる帽子のお客さんにインタビューしてみて」と言われて、僕らがいる大阪のお客さんが「テレビ電話だからこっちが見えるんだ!」と盛り上がる。今ではなんてことないのに。

 毎日、漫才やコントをやり、いろんな歌手の歌謡ショーもあった。僕ら芸人は契約で半年間、出続けました。連日、外国人や日本人でいっぱいだから、華やかなデビューでしたね。

 その万博の後は松竹の劇場を1日2カ所、掛け持ちで出るとか忙しい日々でしたが、苦労とは思わなかった。まだ若かったから。

 転換期は94年に長女とコンビを組んだこと。人生でまったく予想してなかった(笑い)。経緯があったんですよ。娘が高校3年生になった頃、周りは就職活動しているのに、娘は何もしてない。「卒業後は何をするの?」と聞いても「私は私で考えてるから」と。僕は“大丈夫かいな?”と思ったけど、干渉せんかったんですよ。そしたら父の日の前日に「今年の父の日はいいものあげるからね」と言われ、「楽しみに待ってるで」と返事。どうせネクタイか靴下ぐらいやろなと思っていました。

■「お父さんと漫才がやりたい」が父の日のプレゼント

 父の日の朝、起きたら手紙というか絵がついてるカードが置いてありました。「私が高校卒業したらお父さんと漫才がやりたい。これは真剣に考えたことだから、お父さんも真剣に考えてください」。そう書いてあった。「あいつ、何考えてんねん!」と血の気が引きましたよ。僕は芸能界に娘を入れたくない。だからその日以来、僕が出ている劇場に娘が見にきて、家でいろんな芸人の感想を話してきても、一切のらなかった。無視していたんです。

 半年過ぎた頃に、女房から「あの子、真剣なんだから、お父さんも真剣に考えてやって」と言われた。仕方なく娘を呼んで「おまえがテレビで見てるのと違って、やるほうは大変なんやで。とくに女性の世界は芸能界でも一番厳しいんや。おまえ、大丈夫か」と問いただしたら、娘は「やる!」と言い切った。

 そこまで言うならと、会社に「娘と漫才やりたい」と言いに行ったら、親子の漫才なんていないから「やりましょう!」と、すぐデビューすることになった。実は娘はひょうきんでもなく、普通の子なんです。本当にやれるんかなぁと思いながら、ずっと稽古。その頃が僕は一番しんどかったかもしれませんねぇ。

 三吾・十吾でやってきた看板もあったし、会社が応援してくれるから娘とのコンビでもウケなあかん。娘以上に僕の方がしんどかったのと違いますか。

■舞台度胸のよさにびっくり

 でも、いざデビューしてみると娘は舞台度胸がよくて、ビックリしましたね!最初から平然と舞台に立ち、自然にしゃべれる。現代っ子ですね。それから辞めることもなく、娘は初舞台を踏んで25年になります。僕は三吾・十吾でずっとツッコミをやってきましたけど、今は娘がツッコミの立場で主導権を握ってます。もう任せられますね。漫才としてはどの舞台に出ても安定してます。生活は安定してませんよ(笑い)。

 今後はもっとコンビとして幅が出てくればいいと思ってます。父娘コンビをよろしく。父の日にもらった手紙は今も持ってますよ。

 (聞き手=松野大介)

▽さんご 1943年12月、大分県出身。漫才コンビ「浮世亭三吾・十吾」として69年デビュー。94年に娘・美ユルと三吾・美ユルを結成。テレビ・ラジオや舞台で活動中。

最終更新:8/19(月) 9:26
日刊ゲンダイDIGITAL

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