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[寄稿]日本はなぜ韓国を「取り戻すべき故郷」と言うのか

8/19(月) 9:19配信

ハンギョレ新聞

日本民族の北方起源説

日本は自分たちの隣国を時には辺境と見なし、時には起源の地と見なして、自分たちの侵略を合理化した。最近になっても現れる近隣諸国を必要以上に蔑視する発言の背景には、自分の数千年に及ぶ隣国を植民地にしてしまった日本帝国主義の歴史がある。このような日本の自己矛盾的歴史観が、今なお近隣諸国を意図的に無視する態度として現れているのである。

 日本が韓国に対して他国と異なり行ったことは、昨日今日の事ではない。第二次世界大戦のよく似た敗戦国でありながら、周辺国に対する態度に変わりがないドイツと比べると、日本の姿勢はますます理解されない。日本は米国と西欧国家には過度なまでに低姿勢で、被害の当事者である韓国と中国には極度の反感と嫌悪感を示す。

 こうした日本の矛盾的な態度の裏には、19世紀末から始まった日本の東アジア侵略と文化財侵奪事業があった。日本は、自分たちを大陸から下った天孫民族と自任してきた。韓国を植民地にしたことは、すなわち自分たちの「故郷」を植民地にしたつもりだった。日本は、韓国を越えて満州を経て中国を侵略し、日本民族の北方起源説でこれを正当化してきた。日本は朝鮮半島を自分たちの故郷であり、同時に劣等な植民地統治の対象と見た。過去100年余りに及ぶ日本人の歪曲された韓国観は、こうした自己矛盾的歴史観の産物である。

ドルメンに埋まった日本の「インディ・ジョーンズ」

 映画「インディ・ジョーンズ」の背景である20世紀序盤は、帝国主義が競い合って世界各国の文化財を略奪した時期だった。明治維新以後、西欧の文物を受け入れた日本も、そのような帝国主義考古学に積極的に関与した。日本は韓国を正式に侵奪するはるか前の1899年から、韓国の文化財を調査し始めた。元々、日本の朝鮮半島調査の目的は、日本人の起源を探すためのものだった。当時活動した代表的な学者が、東京大学人類学教室の鳥居龍蔵(1870~1953)だ。日本の中でも田舎だった四国の徳島県出身である彼は、正規の学校にまともに通った時期がないにもかかわらず、東京大学人類学教室の教授になった立志伝的人物である。彼の成功の秘訣は、まさに日本軍国主義に積極的に応じたことであった。19世紀末から彼は、日清戦争の戦地だった遼東半島を皮切りに、台湾、沖縄、さらにはシベリアまで、四方に無慈悲に進出した日本軍について回った。鳥居は各地域の原住民を調査して、劣等な集団と優越な集団を区分し、その中から大陸から渡って来た日本人の起源を探そうとした。日本が島を抜け出して大陸各地を占領したことに国民的な興奮が高まった時期だったため、彼の資料は大きく注目された。鳥居は日本が韓国を植民地にするやいなや、1910年に朝鮮総督府の斎藤総督に会い、韓国に日本民族の起源を探す調査を助けてくれるよう説得した。彼の6年にわたる朝鮮半島調査がこのようにして始まった。

 彼が韓国で注目したものは、咸鏡道地域の石器と朝鮮半島全域に分布したドルメン(支石墓)だった。咸鏡道の石器に関心を持ったのは、当時韓国で暮らしていた「未開な」土着韓国人を探すためだった。一方、ドルメンに注目した理由は、未開な土着韓国人の中に住んだ「偉大な」日本人の先祖を見つけることを期待したからである。鳥居は、イギリスのストーンヘンジに類似したドルメンを作った人々は、未開な土着の韓国人ではないと考えた。朝鮮半島のドルメンが、日本の九州一帯でも発見されたため、ドルメンを追跡すれば偉大な日本人のルーツを見つけられると考えた。

 鳥居の考えには、当時の日本帝国主義の矛盾がよく現れている。元々、西欧では、植民地ははるか遠いアフリカや近東地域で、文明の開化が極めて遅れた地域を占めるのが通常だった。しかし、韓国は日本と歴史を共にした隣国であり、何よりも日本の原住民より優越な日本人の起源と考えた場所だった。そんな朝鮮半島を植民地にした日本では、これをどう歴史的に合理化するかが大きな悩みの種に違いなかった。 結局、鳥居以後に朝鮮総督府は、北朝鮮の楽浪郡と韓国の任那日本府を強調することで、本来韓国人は未開で、彼らの間を日本民族の起源となった者が通ったという形の強引な解釈をした。今、嫌韓勢力が韓国を馬鹿にし蔑視する論理は、すでにこの時から始まっていたと言っても過言ではない。

 学者としての鳥居に対する評価に先立ち、私たちが記憶しなければならない点は、彼が日本軍国主義の信奉者だったという事実である。1920年代、ロシア革命の混乱に乗じて日本軍がシベリアを侵略した時、鳥居は「シベリア出兵は人類学、人種学、および考古学に対する貴重な貢献だ!」と言って感激するほどだった。しかし、日本軍国主義の敗亡とともに、鳥居は帝国主義の御用人類学者の烙印を押され、ひっそりと人生を終えた。大陸の夢を忘れようとしなかった彼は、故郷の徳島に北方式ドルメン形態の墓を作って自分を埋葬してほしいとの遺言を残した。

 しばらくの間タブー視された彼の名前は、1980年代以後に日本の影響力が拡がり復活した。彼の名前が四方で言及され、さらに「鳥居学」と彼の研究を神格化して従う研究者が増えている。韓国国内にも鳥居の資料を貴重な資料として分析しようとする試みがある。もちろん、彼が残した写真やその他のさまざまな資料の学術的な意味を無視することはできない。しかし、資料に対する評価以前に、隣国を「未開人」、「辺境」と罵倒し、帝国主義的侵略に積極的に加担したことに対する厳重な評価は必要である。事実、日本帝国主義に加担した学者は、鳥居の他にも大勢いた。今も私たちの周辺には、学者的力量や資料の価値を無視することはできないということで、彼らを合理化しようとする動きがある。しかし、植民地時代、韓国と満洲で活動したすべての日本の御用学者たちは、例外なく価値中立を掲げていたことを忘れてはならない。

日本の朝鮮半島認識の根源

 日帝は1920年代から朝鮮半島を越えて満州と中国一帯に勢力を拡大し始めた。それにより日本帝国主義の考古学者たちが朝鮮半島を眺める観点も変化した。すなわち金石併用期と北方文化論が登場したのである。

 金石併用期という用語は、元々欧州とユーラシア考古学の用語で、新石器時代と青銅器時代の間に存在した時代をいう。しかし日帝は、この用語を朝鮮半島に取り入れて、韓国人はまともな青銅器や鉄器を使うことができなかった劣等な人種という意味に誤解して使った。早い話が、櫛目文土器に代表される新石器文化に留まった土着の韓国人集団と、無文土器の青銅器文化で先行していた日本民族が混じって住んでいたということである。こうした金石併用期説によると、朝鮮半島の発達したすべての遺物は、北は中国の植民地である楽浪、南では日本の植民地である任那日本府の影響が及んでから初めて現れたことになる。日帝の考古学者らも、すでに櫛目文土器と無文土器がそれぞれ異なる時代だということは十分にわかっていた。日本国内でも、新石器時代である縄文時代と朝鮮半島から渡った渡来人が作り出した弥生文化が、それぞれ時期を異にして存在したことを知っていたからである。しかし、日帝が組んだ金石併用期というフレームは、解放以後も約30年間持続し、韓国文化の自主的発展を否定する他律性とアイデンティティ論の基盤になった。

 また、別の日本帝国主義考古学者の観点である北方文化論は、日本人の起源を朝鮮半島を越えて北方満州と見る理論である。このような日本人の態勢転換は、1920年代から露骨化された満州と中国の侵略に関連がある。自分たちが侵略しなければならない土地は、元々は日本人の起源の地だから、侵略ではなく故郷の回復であるという強引な論理だった。この説は、北方ユーラシアの優越な騎馬民族が馬に乗って日本列島へ下り、古墳時代の主人公になったという騎馬民族説に整理することができる。現地人を未開としながら、彼らの間には偉大な日本人の先祖がいるという論理は、朝鮮半島に対する認識と特に違うところがないのである。最近まで韓国でも「北方ユーラシアは元々私たちの領土」だったと根拠が貧弱な主張が流れたが、実はその根は日本軍国主義が主張した侵略論理と一脈相通ずる。

 日本はこのように、自分たちの隣国を時には辺境と見なし、時には起源の地と見なして、自分たちの侵略を合理化した。最近になっても現れる近隣諸国を必要以上に蔑視する発言の背景には、自分の数千年に及ぶ隣国を植民地にしてしまった日本帝国主義の歴史がある。このような日本の自己矛盾的歴史観が、今なお近隣諸国を意図的に無視する態度として現れているのである。

カン・イヌク慶煕大学史学科教授

最終更新:8/19(月) 9:19
ハンギョレ新聞

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