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金大中最後の付属室長「20年右傾化日本…DJが存命ならば怒鳴りつけていただろう」

8/20(火) 8:21配信

ハンギョレ新聞

“最後の付属室長”キム・ハンジョン議員が語る、DJ(金大中)と日本  金大中元大統領、個人的な傷に蓋をし新たな韓日関係を掘り起こす 盧武鉉大統領当選者に前向きな韓日関係要請も 「安倍など極右政治勢力が小渕・小泉の成果をすべてぶち壊した」

 政治家金大中(キム・デジュン)ほど、日本と特別な縁を持った人物は珍しい。日帝強制占領期(日本の植民地期)に生まれた彼は、野党の政治家時代、日本で中央情報部により拉致されて生死をさまよった。1981年、内乱陰謀容疑で死刑宣告を受けた時、日本の市民社会は彼の救命に積極的に取り組んだ。大統領就任後には、韓日関係の礎石になった共同宣言文を引き出した。日本と「経済戦争」を戦っている最近、彼がたびたび呼び起こされる理由だ。

 18日は金大中大統領逝去10周年を迎える日である。韓国大統領府最後の第一付属室長であり、退任後は金元大統領の最初の秘書室長を務めた共に民主党のキム・ハンジョン議員に今月14日会った。

金大中と日本のもつれた縁

 金大中大統領は1924年生まれだ。日帝強占期治下で小中高に通った。日本への国賓訪問の際、高校二年生の時の担任の先生と東京のあるホテルで再会したりもした。そんな彼が、日本との悪縁にとりつかれ始めたのは、1973年8月8日だった。

 「71年の大統領選挙で、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領と薄氷の勝負の末、落選しました。病気治療のため日本に留まっている時の72年10月に維新(朴正煕が戒厳令を宣布、憲法を改定して始まった独裁体制)が起きたのです。夫人の李姫鎬(イ・ヒホ)女史が帰国を止めました。自然に亡命になったのです。この時から73年上半期まで、日本で朴正煕維新体制を批判する講演を活発に行いました。朴大統領が「なぜ放っておくのか」と李厚洛(イ・フラク)中央情報部長に暗示したようです」

 1998年6月に公開された当時の駐韓米国大使館の秘密電文を見ると、米大使館は「李厚洛中央情報部長の指示の下、拉致事件が行われ、朴正煕大統領も明示的または暗黙的に承認したと見られる」と本国に報告した。1998年2月に公開された「KT工作要員実態調査報告」という中央情報部の極秘文書によると、この事件は中央情報部長だった李厚洛の指揮の下、総勢46人が9組に分かれて組織的に実行したとのことだった。中央情報部長を務めた金炯旭(キム・ヒョンウク)も1976年6月22日、米下院フレーザー委員会の聴聞会で中央情報部が金大中を拉致したことを自分が収集した情報で確認したと証言した。

 「この事件の本質は“金大中殺害未遂事件”です。拉致直後、米国がこの事実を知ることになり、朴正煕大統領に対し「殺すな」と警告しました。結局、殺すことはできず船に乗せて数日間海を漂い、13日未明にソウル東橋洞(トンギョドン)の自宅前に放置したのです」

 事件直後、日本政府は韓国政府に「主権侵害」だとして強く抗議した。犯行場所から当時の在日韓国大使館一等書記官だった金東雲(キム・ドンウン)の指紋まで出た。しかし、金鍾泌(キム・ジョンピル)国務総理が朴正煕大統領の謝罪が込められた親書を持って田中角栄日本首相に会い、その後、真相究明作業はうやむやになった。その後、レナード米国国務省韓国課長は、韓国政府が田中に3億円を提供したと見られると米国議会で証言したりもした。

 「事件直後には断交まで口にした日本が、この事件を見逃しました。“韓日結託”でした。日本としては大きな過ちであり、恥ずべき事でした」。後日、金大中大統領は自叙伝で「韓国の独裁政権と日本の金権政治が結託した買収外交の極致だった」と評価した。

個人的な傷に蓋をして成し遂げた新たな韓日関係

 1997年の大統領選挙で、金大中は大統領に当選した。韓日関係は前任の金泳三大統領の「悪い癖を直していく」という発言で最悪の状態だった。こうした状況で98年10月、日本への国賓訪問の日程が決まった。日本側は大いに緊張した。

 「拉致事件を自分たちが見逃したので、金大中大統領がこの事件の謝罪を要求するかもしれないと考えました。日本のマスコミは連日『拉致事件について公式謝罪を要求する』と報道しました。恥ずかしい歴史だったから、日本全体が金大中大統領の口からどのような言葉が出るか、ハラハラしていました」

 しかし、日本を訪れた金大統領は、拉致事件はもちろん両国間の過去の問題にも一言も言及しなかった。特に国会演説の際には「独裁政権下で亡命生活をした時、死刑宣告を受け収監された時、自分を守り手伝ってくれた日本国民とジャーナリスト、政治家に感謝する」と話した。

 「日本側は天皇主催の晩餐会で、このような転換が確実になったことを実感した。金大統領はその席で、過去の問題はおくびにも出さなかった。日本メディアはこの事実を重大に受け留め、その時から「興奮」の兆しを見せ始めた。この興奮は翌日、参議院本会議場で衆参両院の議員を相手にした金大統領の国会演説で絶頂に達した」(当時の国会演説について日本のマスコミと政界は絶賛を送ったが、ただ一人安倍晋三自民党衆議院議員だけが批判的だった)。

 この訪問で金大統領は小渕首相と「21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ共同宣言」を発表した。

 「この宣言が可能だった理由は、日本の謝罪があったからです。小渕首相は、大韓民国を明示して外交文書に謝罪と反省を表記しました。それ以前にも河野談話、村山談話などの謝罪はありました。しかし河野談話は『女性たちに』謝罪し、村山談話は『アジア諸国』に謝罪しました。対象が不明確だったのです」。

 共同宣言には「小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国(日本)が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた」という文言が含まれた。

 「共同宣言には多くの原則と具体的行動計画が込められました。金大中大統領は、日本の大衆文化を韓国市場に開放するという決定を下しました。韓国国内では激しい反対がありました。しかし、結果は日本で韓流ブームが吹いたのです。日本人の韓国観光も急増しました。韓日関係ルネサンスだったのです」

日本に集中したのは朝鮮半島平和のため

 金大中大統領が韓日関係を重視したのは、朝鮮半島の平和に日本の協力が必ず必要と思ったからだ。これをよく示すエピソードがある。

 2002年12月23日、金大統領は盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領当選者と大統領府で会った。盧大統領当選者に教える内容をあらかじめノートにメモしたが、分量がA4用紙5枚になった。90%以上が周辺国外交に関する話だった。

 「家庭教師のように几帳面に書いて、ほとんどそのまま伝えました。米国、ロシア、中国、日本、北朝鮮について5年間に感じた点、現在のそれらの国の立場、今後行わなければならない課題などがぎっしり書かれていました」

 この日の会合で大統領は、当時の日本の状況に関して説明することに多くの時間を割いたと言う。金大統領は盧次期大統領に「就任中、韓日関係を大いに改善した。日本は根深い対北不信を持っている。しかし、小泉首相は北朝鮮との関係改善を希望している。投資や観光だけ見ても、経済的に韓日関係が私たちの国益に役立つ。韓日関係について前向きな姿勢で臨んで欲しい」と助言した。

 キム議員は最近、金大中大統領のこのような業績を根拠に、文在寅(ムン・ジェイン)大統領が対日外交をうまくできていないと非難する人たちを、強い口調で批判した。彼は「金大中大統領は外交能力が優れており、韓日関係を上手にこなしたが、文大統領は外交能力が不足しているとケチをつける。こうした批判は明白な歴史歪曲」であると述べた。続いて「金大中政権が相対した小渕・小泉首相は、平和憲法を維持し、北朝鮮との関係改善も試みた。朝鮮半島の平和を妬まなかった。しかし、その後の20年間、日本政治が極右化し、安倍に代表される日本の極右政治勢力が小渕・小泉時代に成し遂げた成果をすべてぶち壊した」と指摘した。

 金大中大統領が生きていれば、今の日本にどう対しただろうか。キム議員は「日本に向けて激しく怒鳴りつけただろう」と断言した。「金大中・小渕宣言を挫折させたのは日本です。真心こもった謝罪と反省を込めた外交文書を、事実上廃棄したのです。日本政治の指導者が破廉恥な行為をしています。『金大中・小渕』の『金大中』はそのままですが『小渕』だけが『安倍』に変わりました。過去20年の歴史は日本右傾化の歴史です。このままでは、どのような指導者が出ても韓日関係は良くなりません」

キム・ウォンチョル記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

最終更新:8/20(火) 8:21
ハンギョレ新聞

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