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一人息子を乗せた船が撃沈 うわさ聞き探し回ると「非国民」 義母の体験 次代に残すため語り部に

8/20(火) 18:10配信

沖縄タイムス

遺族の戦後 対馬丸撃沈75年(3) 謝花奈津子さん

 体験していないからこそ「一緒に思いをはせよう」と呼び掛けることができるのではないか-。そんな思いを胸に、ことし、語り部としての活動を始めた遺族がいる。謝花奈津子さん(68)=那覇市。75年前、夫の母の弟、我喜屋哲一さんが対馬丸に乗り亡くなった。哲一さんは天妃国民学校5年生の11歳だった。

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 ことし6月の天妃小学校。子どもたちの前で語る奈津子さんの姿があった。「みんなのお母さんも、みんなが夜遅くまで帰って来なかったら、心配するでしょう。生きるか死ぬかのことで、カマドおばあさんも必死に哲一おじさんを探し回ったの」

 哲一さんは女きょうだいに囲まれた一人息子。家族は跡取りとして大切だからこそ学童疎開を選んだという。しかし出航から数日後、対馬丸が沈められたらしいとのうわさが親族たちの間に流れ始めた。哲一さんの母カマドさんは息子の消息を求め懸命に那覇の街を尋ねて回った。

 当時、沈没のことは語ってはいけないとされ、住民たちにはかん口令が敷かれていた。息子の消息を尋ね回るカマドさんは「流言飛語を流す非国民」として、憲兵に捕まり留置場に一晩入れられた。

 哲一さんが亡くなったことがはっきりしたのは終戦後だが、以降、カマドさんは哲一さんのことをほとんど口にしなかったという。

 「あまりの悲しみで話せなかったんだと思う」。カマドさんが亡くなったとき、たんすからは風呂敷に丁寧に包んだ哲一さんの着物が出てきた。奈津子さんは「着物にはカマドさんの苦しみや後悔や愛情などすべてが詰められていた」と振り返る。

 奈津子さんがそんな家族の歴史を知ったのは対馬丸記念館が開館した15年前のことだ。夫の寛営さん(68)が同館の役員として関わったのを機に、関係者から当時のことを聞き取るようになった。その同館からの依頼で語り部としての活動を始めた。

 哲一さんの疎開先を、本土か、姉のいた台湾かで悩んだこと。「哲ちゃんが行くなら自分も行く」と乗船した叔父の同級生がいたこと-。聞き取りを通して奈津子さんは「子どもたちを乗船させた家族は被害者なのに、加害者のような責めまで負わざるを得なかったことを知った」と話す。

 体験者が少なくなった今「聞いたことを伝えることで子どもたちの知識に血が通うようになってほしい」と願う。対馬丸の体験を聞いた者として、バトンを渡すことが役割だと考えている。(社会部・下地由実子)

最終更新:8/20(火) 18:40
沖縄タイムス

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