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教科書、2人の遺骨代わり 対馬丸撃沈で姉と兄犠牲・久保さん、記念館に寄贈

8/22(木) 7:04配信

琉球新報

 児童や一般の疎開者を乗せた「対馬丸」が米潜水艦の魚雷に沈められて22日で75年を迎える。姉と兄が犠牲になった鹿児島県姶良市の久保光子さん(81)=那覇市出身=は今年6月、遺骨代わりに大切に保管してきた遺品の教科書を対馬丸記念館(那覇市)に寄贈した。教科書は22日から始まる特別展で展示される。久保さんは「子どもたちに犠牲になった姉たちが使っていた教科書を見てもらい、平和のありがたさを感じてほしい」と願う。


 犠牲になった2人は岩城初枝さん=当時(11)=と宗英さん=同(8)。当時5歳だった久保さんは、初枝さんと駄菓子を買いに行ったり宗英さんとセミ捕りしたりした日々を懐かしむ。年が近かった宗英さんとは、よく遠出して家に帰るのが遅くなり、父に怒られたことが思い出だ。

 久保さん一家は対馬丸撃沈の直後、憲兵だった親族から「日本は戦争に負ける。沖縄は危ないから病院船に乗って逃げなさい」と助言され、那覇から鹿児島県に移った。久保さんは対馬丸が撃沈されたことは聞かされておらず「九州に行けば会えるだろうと思っていた」という。

 鹿児島に移った2年後、2人の名前が記された柳ごうりが熊本県内の海岸に打ち上げられている、と警察から連絡があった。柳ごうりには、対馬丸乗船時に持たせた衣類や教科書が入っていた。父がそれらを熊本から持ち帰り、久保さんら残ったきょうだいに2人の死を打ち明けたという。

 さらに、母から聞かされて驚いたことがある。母は久保さんも一緒に疎開させようとしていた。ただ、幼い久保さんは「船内で泣くだろうから迷惑」と、姉が拒否したのだという。久保さんは「今考えれば、姉が私の命を救ってくれたんですね」と涙する。

 戦後、教科書は風呂敷に包んで花と共に棚に供え、家族で手を合わせてきた。「2人の遺骨の代わりに、大切にしてきた」。両親の死後は残ったきょうだいで大切に保管してきたが、年齢を考えて今年6月末、記念館に寄贈したのだという。久保さんは「記念館で活用していただければ、2人の供養にもなると思う」と話している。
 (高田佳典)


■きょう那覇で慰霊祭

 対馬丸記念会(高良政勝理事長)は22日午前11時から、那覇市若狭の旭ケ丘公園にある小桜の塔で慰霊祭を行う。

 午後10時からは公園内にある対馬丸記念館の屋上で追悼集会を開き、攻撃を受けた午後10時12分に合わせて関係者が祈りをささげる。

 対馬丸には児童や一般の疎開者ら1661人を含む1788人が乗船したとされ、名前が確認された犠牲者は1484人に上る。開館15年を迎える記念館では22日から9月29日まで特別展「対馬丸75年の想い」が催される。遺族が寄贈した教科書や直筆のはがきなどの、初公開の資料が展示される。


■1484人犠牲、戦時遭難戦で最多


 太平洋戦争時、日本政府は南西諸島での戦闘の「足手まとい」になる住民を移動し、軍の食料を確保することを主な目的として、県民を九州や台湾に疎開させることを決めた。県内の国民学校から集められた児童らを中心に、「対馬丸」には疎開児童や船員ら計1788人が乗船。撃沈で児童784人を含む1484人(氏名判別者数、2019年8月21日時点)が犠牲になった。県関係の戦時遭難船舶は26隻あるが、対馬丸は最も多くの犠牲が出たとみられる。

 県外への疎開には、日本軍の兵士らを沖縄に乗せてきた貨物船や軍艦が利用された。1944年8月19日に対馬丸、暁空(ぎょうくう)丸、和浦(かずうら)丸の貨物船3隻で中国から数千人の兵士を運んで那覇港へ入港。この時、既に米潜水艦ボーフィン号に追跡されていた。

 同21日には疎開する児童らが対馬丸に乗り込み、午後6時35分に長崎へ向けて那覇港を出港した。途中、米軍のレーダーを探知した船団は、潜水艦の魚雷を避けるため蛇行航行して九州へ向かおうと試みる。だが対馬丸は老朽船で、船団の中で速度が最も遅く、潜水艦の格好の標的となった。

 米軍は日本側が使用していた暗号の解読に成功しており、ボーフィン号は船団が通過する悪石島海域に先回りして待ち伏せた。22日午後10時12分、対馬丸に向けて発射した魚雷攻撃が命中し、黒煙を上げて同10時23分、沈没した。

 10分足らずで沈没して、船内から逃げ出せなかった児童らの多くが犠牲になった。生存者は、漁船や哨戒船に救助されたり、周辺の島に漂流したりした約280人だけだった。

琉球新報社

最終更新:8/22(木) 14:31
琉球新報

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