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「お前だけ生きてうちの子は死んだ」石を投げつけられ…船沈没から生き延びた少年、遺族の目、避け続け

8/22(木) 5:00配信

琉球新報

 アジア・太平洋戦争の末期、戦火が迫る沖縄から本土への疎開が国策によって行われた。しかしその頃、すでに制海権はアメリカに奪われており、攻撃を受けて沈没する船が相次いでいた。「対馬丸」もその一つ。長崎県に向かうため、1944年8月21日に那覇港を出港した船は翌22日、鹿児島県悪石島沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没した。乗船者数1788人のうち、1484人(氏名判明者数、2019年8月時点)が死亡。犠牲者の半数以上が15歳以下の子どもたちだった。生存者や遺族ら対馬丸をめぐる人々は何を思い、何を背負って生きたのか。

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「長めの遠足と思っていた」

 終戦翌年の1946年夏、疎開先の宮崎県から引き揚げると、那覇市内の民家を訪ねた。一緒に対馬丸に乗った同級生の死を伝えるためだった。出迎えた母親はにらみつけてこう言った。「お前だけ生きて、うちの子は死んだというのか」。玄関先の石を何度も何度も投げつけられた。

 大嶺正次郎さん(88)=那覇市=は当時のことを鮮明に覚えている。同級生の母親からは乗船前に「兄弟のようにしてくれ。万一のときは助け合って」と念を押されていた。この一件以来、対馬丸との関わりはほとんど避けてきた。

 那覇国民学校高等科2年生だった13歳のとき、対馬丸に乗船した。当時、既に沖縄近海の制海権は米軍が握っているとのうわさは市民にも伝わっていた。ただ「長めの遠足。1カ月くらいで帰れるだろうと思っていた」。家族の反対を押し切って疎開を決めた。

 自分は強運だと思う。被弾した船倉内では、乗船者が逃げ惑う中で、偶然見つけたはしごを使って難なく甲板に出られた。海に飛び込むと手の届くところに救命ボートが浮かび上がった。漂流して数日、偵察機に発見され、知らせを受けた漁船に救助された。

 かん口令が敷かれ、憲兵や警察に監視される中、故郷の母と祖母には「カネヲクレ」と電報を打ち「無事」を伝えた。疎開先で国民学校を卒業すると朝鮮鉄道で働いた。終戦後、朝鮮から引き揚げてくる時も海難事故に遭ったが、乗船者の中で唯一助かった。再び疎開先の宮崎に戻り、住み込みで働いた。家の主人はかつて沖縄に住んでいたことがあり、かわいがってくれた。母と祖母は沖縄戦を生き延びた。

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最終更新:8/22(木) 18:27
琉球新報

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