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「あの時死んでいれば」とつぶやいた母 75年前起きたことは何だったのか 娘は母の「あの時」をたどる

8/23(金) 7:34配信

琉球新報

 幼い子どもたちを乗せた対馬丸が海の底に沈んで75年となった22日、慰霊祭が開かれた那覇市若狭の「小桜の塔」には例年より100人以上多い参列者が集まり、鎮魂の祈りをささげた。生還した肉親が経験した戦後の苦しみを理解してあげられなかったと悔やむ遺族、目の前で亡くした友人や家族を思い涙を流す生存者―。犠牲になった子どもたちが夢見た「未来」を生きる人たちが、平和を守り続けることを誓った。


 「母の苦しみを分かってあげたかった」。久場富子さん(64)=北中城村=は昨年亡くなった母を思い、小桜の塔の前で涙した。

 母の屋宜信子さん(享年91)は18歳のとき、8歳、6歳の弟2人と、4歳の妹を連れて対馬丸に乗船し、信子さんだけが助かった。ただ、そのことを長年語らず、うっすらと聞かされていたのはきょうだいが犠牲になったということだけ。小学生のころの課題で、両親から戦争体験を聞くときも、母は決まって「忘れた」の一言で会話を終わらせていた。

 母が生存者だと知ったのは約25年前。親族から聞かされた。それでも、詳しいことは聞かせてもらえなかった。対馬丸撃沈から75年、今回の慰霊祭の前日に改めて親族から詳しい話を聞いた。幼いきょうだいは港で乗船を嫌がったこと。母は3人を抱えてイカダで漂流していたが、3人が手から離れて海に沈んだこと…。「母も死のうとしたけど一緒に漂流していた男性に助けられたそうです。母の罪悪感はどれだけか」。久場さんは言葉を詰まらせた。

 ドアが閉まる音にも飛び上がるほど驚き、つらいことがあると「あのとき死んでいれば」とつぶやいていた母。久場さんは「あのとき」の詳細を知り、初めて母が背負ってきた十字架の重さを分かったという。

 慰霊祭には、家族で作った千羽鶴をささげた。「母は戦争でたくさんのつらい思いをした。母のような思いを誰にもさせたくない」。今後、母の話を家族や親族にも聞かせようと思っている。

 池宮城洋さん(73)と晃さん(70)の兄弟=那覇市=は、対馬丸で犠牲になった叔母菊子さん=当時(13)=を思い、小桜の塔に手を合わせた。

 菊子さんの写真も遺品もない。「どのような最期だったのか気になっていた」という2人は2年前、対馬丸記念館を頼り、菊子さんを知る生存者を探した。見つかった女性によると、甲板にいた菊子さんは魚雷攻撃を受け、海に投げ出されたという。明るく、元気が良かったという菊子さんの人となりも分かり「ふと心のもやもやが解けた」と洋さんは話す。

 晃さんは「対馬丸の悲劇を後世に継承していくことが大切だ」と語る。池宮城家の墓の横には、菊子さんと満州で戦病死した叔父を弔う碑がある。墓掃除や墓参りには子や孫を連れて行き、2人の話を聞かせているという。

 これまでにも、戦時中に使われていた国民学校の制服や教科書を全国から収集し、記念館に寄贈してきた。今後も協力するつもりだといい「悲劇と教訓を記録として残さなければならない。それが遺族としての務めだ」と語る。

 対馬丸が米潜水艦の魚雷攻撃を受けた22日夜、対馬丸記念館(那覇市)の屋上で追悼の集いが行われた。記念館開館から節目の年に開催し、今回で5回目となる集いには、生存者や遺族ら30人が参列した。

 遺族の渡口眞常対馬丸記念会副理事長(69)が般若心経を読経。対馬丸が攻撃を受けた時刻と同じ午後10時12分、汽笛の音に合わせて対馬丸が沈没した鹿児島県・悪石島沖の方角に向かい黙とうした。その後、スチール製の折り鶴をささげ、手を合わせた。2人の姉を亡くした外間邦子常務理事(80)は「鶴に乗って皆さんの慰霊の気持ちが、悪石島の海底に眠る子どもたちに届いたと思う」と述べた。

琉球新報社

最終更新:8/23(金) 17:15
琉球新報

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