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【熊本城のいま】「二様の石垣」築造の定説に一石

8/23(金) 11:21配信

熊本日日新聞

 熊本城で観光客の撮影スポットとして人気を集める場所の一つに「二様[によう]の石垣」がある。本丸御殿の南西部に位置する高さ16メートルの石垣で、南側から見ると勾配の異なる二つの石垣が重なるように造られている。北側の背後には天守閣がそびえている。この石垣は熊本地震で5センチほど沈下したが、崩落など大きな被害は免れた。

 二様の石垣の築造年代について、傾斜が緩やかな手前の石垣は加藤時代、奥が細川時代とされている。しかし、熊本市の熊本城調査研究センターの鶴嶋俊彦さん(64)は史料や石垣の特徴などから「両方とも加藤時代に築かれたものではないか」と疑問視する。

 鶴嶋さんによると、手前の石垣は地上近くの勾配が46度で緩やかに積み上げられ、3分の2ほどの高さからは反り上がっている。この様式は加藤清正が手掛けた大天守の石垣と共通していることから「清正時代の石垣」とされている。

 一方、奥の石垣は地上近くの勾配が60度で、中ほどから反りが強くなっている。この石垣は、清正の息子忠広の時代の絵図(寛永7年ごろ)に描かれておらず、加藤家改易後に肥後に入国した細川忠利が、本丸御殿の修復のために石垣を新たに拡張したという研究者の指摘が支持されたことから、「細川時代の築造」が定説だ。

 ところが、鶴嶋さんは忠広時代の絵図は表現に省略が多く、正確さを欠いていると指摘。忠利が本丸御殿で修復したのはあくまで居住部分であり、「幕府へ(修復を)申請した絵図にも、石垣を拡張することは描かれていない」と話す。

 さらに、奥の石垣は、忠利時代に造られた城内の他の石垣と積み方に違いがあるという。奥の石垣は横目地が通った「布積み」だが、忠利時代の平櫓[やぐら]の北側石垣は横目地が通りにくく、直線的な勾配で反りがみられない。

 これらのことから鶴嶋さんは「奥の石垣は、構造と技術の観点から、忠利が手掛けた石垣と共通する特徴がほとんどない。忠利時代の石垣は別個の技術、おそらく豊前から引き連れてきた石工衆によるもの」と推察。「『二様の石垣』の二つの石垣は加藤時代」と結論付けた。

 鶴嶋さんは「一つの推論であり、今後の議論のスタートになれば」と話す。鶴嶋さんの研究内容は、熊本城調査研究センターのホームページの「刊行物」にある「熊本城調査研究センター年報5」に掲載されている。(飛松佐和子)

(2019年8月23日付 熊本日日新聞朝刊掲載)

最終更新:8/23(金) 11:21
熊本日日新聞

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