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日本高野連が甲子園を”タダ”で借りられるワケ

8/23(金) 18:03配信

VICTORY

令和最初の甲子園となった第101回全国高校野球選手権大会は22日、履正社(大阪)の初優勝で幕を閉じた。節目の記念大会で史上最多の動員(101万5000人)を記録した昨年の第100回大会には及ばなかったが、それでも84万1000人が足を運んだ。12年連続で80万人を超えた。

注目の163キロ右腕、大船渡(岩手)の佐々木朗希投手(3年)は出場できなかったが、準優勝した星稜(石川)の奥川恭伸投手(3年)の快投など、話題は豊富。お盆の時期には始発電車に乗っても当日券を入手できないチケット難民問題も起こった。

夏フェス化する聖地甲子園。大会を主催する日本高野連は、この大きな磁力を持つ阪神甲子園球場の使用料を所有主の阪神電鉄に支払っていない。今年でいえば、甲子園練習が始まった8月1日から22日間、使用したことになる。あまり世間に知られていないこの話、都市伝説のように伝え聞いていたので、今回確かめてみた。取材に応じてくれた阪神電鉄の幹部は事実として認めた。

「ええ、球場使用料は日本高野連さんからも朝日新聞社さんからも、いただいておりません。大会にかかわる警備の費用は実費でいただいております」

警備以外でスタンドの球場清掃費用など、大会運営にかかわる諸費用は、原則阪神電鉄持ちである。大会期間中、阪神電車の運賃収入が大幅に増え、球場内の飲食物販の売り上げは球場収入になる。メリットはそれなりに大きいが、それにしても気前がいい。阪神電鉄が持つ阪神タイガースは毎年この時期、高校球児に本拠地を明け渡し、長期ロードに出る。最近は京セラドームに戻るため、選手の負担は減ったが、死のロードと呼ばれたこともあった。夏休みは興行をする上で、最も動員が見込める時期である。それでもその対価を高野連側には求めないというのだ。

高校野球と阪神電鉄のかかわりは1917年の第3回選手権大会にさかのぼる。第1、2回で使われた豊中グラウンドから、阪神沿線内にある鳴尾競馬場内の運動場を使うようになった。地元関西勢の優勝が続き、人気が沸騰。5000人の鳴尾球場では観客を収容できなくなり、本格的なスタジアム建設の機運が高まった。1922年、氾濫を起こしていた武庫川河川の改修に伴う、払い下げの土地を電鉄が巨費を投じて購入。1924年8月1日、6万人の収容の甲子園球場が誕生した。その年の第10回大会(8月13-19日)から高校野球で使用されている。阪神タイガースの創設は1935年で、高校野球(当時は中学野球)の方が先輩になる。ちなみに日本高野連の前身、全国中等学校野球連盟が結成されたのはそののちの1946年2月になる。

当時の様子を知る関係者は少ないが、ある球場関係者は「高野連のみなさんと、阪神電鉄、主催新聞社さんのスタッフが、手弁当で運営に当たっていたようです」と話した。とにかくやってみようと、高校野球関係者、阪神電鉄、主催新聞社が今で言う走りながら考えるスタイルでスタート。三者一体での運営とあり、球場使用料という概念そのものが存在していなかったのかもしれない。

使用料が派生しないどころか、どこかのお笑い会社のように、契約書が存在しない時期も長く存在したという。年始に時の日本高野連会長が、大阪・野田にある阪神電鉄本社を訪れ、電鉄会長にあいさつ。「今年もよろしくお願いします」「こちらこそよろしくお願いします」というあいさつだけで、その年の春夏の甲子園開催が決まっていたと、阪神電鉄、高野連の両幹部から聞いたことがある。甲子園球場側も毎年3月の選抜と8月の選手権大会があるものだということで、頼まれる前から毎年おおよその日程を押さえていたという。他者に貸し出したり、タイガースが試合を行うというような発想は一切ない。

阪神電鉄の幹部は「覚え書きのようなものはあったようですが、契約書はなかったと聞いています。(2007-10年の)球場リニューアル工事のときに、それではいけないだろうということで、契約書を交わすようになりました」と説明した。

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最終更新:8/23(金) 18:03
VICTORY

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