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札幌を変えた。北海道を変えた。天才・小野伸二、番記者が見たコンサドーレでの6年間

8/24(土) 7:06配信

スポーツ報知

普段は車の少ない道が、すでに渋滞していた。乗用車でドームにたどり着くには、いつもの倍ほどの時間がかかった。小野伸二、北海道コンサドーレ札幌所属でのラストゲーム。クラブ担当7年目で経験したことのない、ワクワク感と寂寥(せきりょう)感の入り混じった空気が、試合前から会場には流れていた。

【写真】札幌でのラストゲーム後、サポーターに笑顔で手を振る小野

 試合5日前、J2の琉球FCへ小野が完全移籍することが発表された。突然の報に、浦和レッズ戦のチケットの売り上げは、1日1500枚ペースで伸びていった。当日、詰めかけた観客数は8年ぶりに3万5000人を超えた。そのほとんどが注いだ視線の先にいたのは当然、小野だった。試合前の選手紹介の際、誰よりも大きな声援に包まれた。小野は両手を高々と挙げ、その声に応え、ラストピッチに立つ時を待った。大観衆も出番を信じ、小野の一挙手一投足を見守った。

 ただ1-1の拮抗した展開に、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督が切った3枚のカードに、小野が入ることはなかった。それでも小野は最後まで笑顔を貫いた。「こうやってベンチに入れさせてもらったことを嬉しく思うので」。場内を1周した際、本拠地のファンだけでなく、浦和サポーターからも声援が飛んだ。次々とかけられた感謝の言葉が、不完全燃焼の思いを消した。「これだけ大勢の人が小野伸二を応援してくれたことが嬉しい」。5年前の決断が間違ってなかったことを確信し、新天地・沖縄へと旅立った。

分不相応と分かっていても

 2014年元日。オーストラリアリーグのウェスタン・シドニーに所属していた小野は、シドニー市内である人物と夕食をともにしていた。前年3月に札幌の社長に就任した野々村芳和だった。「チームを強くし、J1に行くためには伸二の力が必要なんだ」。そう訴えた野々村が社長になった13年は、前年の降格から1年でのJ1復帰を目指したシーズン。しかし結果は8位と、プレーオフ進出すら叶わなかった。クラブ創設の96年からJ2降格は実に4度。J1残留は01年の1度のみ。エレベータークラブとも揶揄された札幌が、すがる思いで命運を託したのが小野だった。

 日本代表として56試合に出場し、フランス、日韓、ドイツと3大会連続W杯に出場。実力はもちろん、その人間性にも惚れ込み、札幌は小野獲りに挑んだ。「成功した人を近くに置くことでチームは変われる。目指すサッカーをより早く実現するために、伸二の力を借りたい」と野々村は白羽の矢を立てた。

 13年の選手年俸に相当する強化費は約3億円。J2でも中位クラスというクラブ規模での小野招聘が、分不相応というのは分かっていた。当時、報知新聞でニュースとして報じるまで1週間、野々村との掛け合いが続いたのを覚えている。「今、記事になったら『札幌でも手が出せるならうちも』というクラブが出てきてしまう」。そう野々村が口にしていた程、クラブは小野獲得に懸けていた。その思いに応じた小野の根底にあったのが「挑戦心」だった。

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最終更新:8/24(土) 7:06
スポーツ報知

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