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独りで育ててくれた母の疎開船 撃沈は「事実ではない」憲兵が叱責 息子にも語れなかった父の悲しい記憶 証言集に託す

8/24(土) 5:10配信

沖縄タイムス

遺族の戦後 対馬丸撃沈75年(6) 瑞慶村篤さん

 2年前に沖縄に移住した瑞慶村篤さん(60)は、父から「対馬丸」の話をほとんど聞いたことがない。「戦争体験は、必ずしも家族だから受け継げるとは限らない。それほど重たい記憶なのだと感じる」と話す。

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 父の智篤さん=享年(91)=は、母のマカトさん、姉の岸本郁子さん、めいの美保子さんを対馬丸で亡くした。篤さんは千葉県で生まれ育ち、父から対馬丸のことを聞いた記憶は2回。うち1回は「船で母たちは亡くなった」と、対馬丸の名前すら出なかった。

 智篤さんの体験は、大阪の出版社「新風書房」(福山琢磨社長)が編さんする「孫たちへの証言 第17集」に残されている。

 智篤さんは2歳で父を亡くし、母が着物の縫い仕事をして育て上げた。県立第一中学校(現首里高校)を卒業後に上京し、対馬丸が出航したころには都庁に就職していた。

 証言本によると、智篤さんは対馬丸が沈没したことを上司の配慮で極秘で知る。母子家庭で自らを育ててくれた最愛の母を捜そうと、母の疎開予定地だった鹿児島へ向かったが、憲兵に遭難は事実ではないと叱責(しっせき)された。智篤さんは母の行方を確認できないまま、東京に戻る。終戦から20年がたった時、鹿児島の海岸で小石を拾い、遺骨の代わりに墓へ納めたという。

 篤さんは、父から「これ、書いたから」と、事もなげに証言本を渡されたのを覚えている。すぐには読まなかった。何かの折りに本を開くと、初めて聞く話ばかりだった。

 「父なりの後世への伝え方だったのではないか」と今では思う。子どもにまで、悲しい気持ちを引き継ぎたくはない。けれど、絶対に忘れることはできない事実を残しておきたいと記したのではないだろうか。

 もう確かめるすべはないが、父が残した証言がそう語っているように感じる。

 数年前、高校生だった娘が「対馬丸記念館に行ってみたい」と言い出したことがある。記念館に連れて行き、初めて父の話をした。多くは語らなかったが、娘は歴史を真摯(しんし)に受け止めているように見えた。

 「私のように、家族に詳しく話していない戦争体験者は多いと思う。ただ、時代が流れ、いつか誰かが知りたいと思ったときに知ることができるよう、今ある事実をできる限り残しておいてほしいと感じています」と話す。(社会部・國吉美香)

最終更新:8/24(土) 5:10
沖縄タイムス

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