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[寄稿]終末はこのように来る

8/25(日) 18:11配信

ハンギョレ新聞

 去る8月3日、「あいちトリエンナーレ2019」国際芸術祭の一環である企画展「表現の不自由展・その後」を中止するという唐突な発表が、同展実行委員長である愛知県の大村知事からあった。この企画展に反対する勢力から「テロ予告や脅迫の電話など」があり、展示作品を「『撤去しなければガソリン携行缶を持ってお邪魔する』というファックスもあった」という。同展は「慰安婦を表現した少女像」や「昭和天皇の肖像が燃える映像作品」など、今までに日本各地の美術館から撤去されたり、作品解説を書き換えさせられたりした20数点が、「表現の自由」を考えるきっかけにしてもらうという狙い(主催者)で示されたものだ。それが開幕わずか3日で、脅迫によって中止に追い込まれたのである。

 名古屋市の河村市長はこの企画展を「日本国民の心を踏みにじる行為」だと激しく非難した。実行委員長である大村知事は、河村市長の発言は憲法の禁止する「検閲」にあたるのではないかと疑義を呈して反発した。知事のこの発言自体は極めて当然のものだが、それなら責任ある知事みずからが、憲法違反を承知で脅迫に屈したことを自ら告白したことになる。脅迫した者はもちろん、大村知事も展示作品を守るべき立場の芸術監督も、その責任をまぬがれないだろう。同芸術祭に出品した作家たちはこの措置に「強く反対し抗議する」という共同声明を発している(10日現在、賛同者87名)。

 このような常軌を逸した状況を名古屋市長や大阪府知事といった政治人が煽る。政府の菅官房長官は、「事実関係を確認、精査」するとして、文化庁の補助金交付の中止をチラつかせた。

 いま私の脳裏に映し出されているのは、「終末」の光景である。芸術展に対して、モッブ(ゴロツキ)たちが、犯罪そのものの脅しを加える。それも、最近起きたアニメーション制作会社への放火殺人事件を奇貨として脅迫するという、考えられる限り最も卑劣な手法で。それが一人や二人の行為ではない、15日までに愛知県当局に対する「抗議」の電話、ファックス、メールは約5700件にのぼるという。脅迫した勢力は卑劣な手法が効果的であることを、そして権力者たちが彼らの行為を歓迎していることを、もう一度確認したのだ。

 「終末はこのように来るのだ」。芸術行為はそのことを知らせる警鐘である。芸術に対する権力の干渉は人間の感性そのものに対する干渉である。「芸術に関することだから」「芸術は日々の生活に直結しない一種の「贅沢」だから」などといった心理で市民がこの警鐘を軽視するようなことがあれば、それはすぐにも感性そのものへの統制にまでつながる。何が「美」で何が「醜」かといった基準まで権力が押し付けることになる。このような光景を私たちはかつて日本で、ドイツで、世界の至る所で繰り返し目撃したはずではないか。

 「躓きの石stolperstein」というアートをご存知の方は少なくないだろう。ケルン在住の彫刻家グンター・デムニッヒ(Gunter Demnig)氏が1993年に始めたアート・プロジェクトである。四角い歩道の敷石の一つが金属で造られていて、そこに、その場所から強制移送されたユダヤ系市民個々人の姓名、移送年月日、移送先、そして判明していれば没年が刻まれている。「躓きの石」という名のとおり、気づかないまま歩いていて、何かの拍子に足が、あるいは心が引っかかり、ナチズムの歴史を想起する。そのように造られたアート作品である。ドイツ国内の主要都市はもちろん、ウィーンやザルツブルクなど、かつてナチスが支配し、ユダヤ人たちが犠牲に供された諸都市で、街路を注意深く歩きさえすれば誰でも目にすることができる。被害者の目から見ればとても十分とは言えないだろうが、それでも、ドイツ市民が自発的に真摯に過去と向かい合う姿勢を示しているのである。これを、第二次大戦敗戦後のドイツ人がヨーロッパの中央で、かつての被害民族に囲まれて生きていくために発揮した知恵の一つだと見ることもできよう。日本もまた、アジアで平和のうちに生きていこうとするならば、このような知恵を発揮するべきではないのか。もし、このような自国の侵略責任に向かい合う作品が日本人作家によって自発的に造られ、さしたる妨害もなく日本各地に設置されるような状況であれば、事態は今日とは異なっていたはずだ。徴用工問題も同様である。それは多数の日本国民にとっても望ましい状況ではないか。日本は、可能であったはずのそのような道とは正反対の道を進んでいる。日本国民の多くは、理性的判断や自主的決定ができず、積極的にであれ、無関心ゆえであれ、支配層に従って、次の「終末」への道を歩んでいる。


 もう一つアートの話をしよう。グアテマラにダニエル・エルナンデス=サラサールという写真アーティストがいる。グアテマラ内戦(1960-96)末期より、いわゆる秘密墓地(内戦中、ゲリラ掃討作戦の民間人犠牲者が遺棄された場所)の発掘調査にたびたび同行し、遺骨遺品の記録撮影を手がけた。その作品は、両肩に白い翼をつけた「天使」が、「ここにいるぞ」と叫んでいる姿である。写真よく見るとその翼は、発掘された犠牲者(多くは先住民)の肩甲骨なのだ。ダニエルとその仲間たちは軍事政権による弾圧をかい潜ってこの作品をグアテマラ各地に貼り、北米で米軍基地やヨーロッパ人による先住民征服の記念碑に貼るというパフォーマンスを行った。

 その作品の展示が2004年東京で開かれ、私も作家とともにギャラリートークに加わった。その時、聴衆の中の日本人アーティストがした発言が忘れられない。街路に作品を展示するダニエルが「羨ましい」と述べたのである。日本では公共スペースに作品を展示するには様々な煩雑な許可が必要だから、と。ダニエルは黙っていたが、私は黙っていられなかった。このような作品展示に、作家がどれほどの危険を冒し、労力を払っているか想像して欲しい。そのようなアートであるからこそ秘密裏に埋められた遺体を発掘し、軍事政権が隠蔽しようとする真実を暴くことができるのである、と。
「あいちトリエンナーレ」の出来事は、私にこのことを思い出させた。アーティストは、許可があろうとなかろうと、真実を発掘し語るべく一歩を踏む出すべきだ。そうでなければ「終末」の到来を食い止めることはできない。

徐京植(ソ・ギョンシク) 東京経済大学教授(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

最終更新:8/25(日) 19:37
ハンギョレ新聞

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