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家族だんらんの夢、目覚めると1人…「あの虚しさは今でも」 戦火のサイパン、引き裂かれた一家

8/25(日) 15:40配信

沖縄タイムス

◆祈りの旅 南洋戦75年(上)

 サイパン島、テニアン島の沖縄県出身者計約9千人が犠牲になった地上戦から75年。50回目を迎える南洋群島帰還者会主催の慰霊の旅は、今年で最後となる。一方、体調などを理由に参加できない人たちもいる。25日からの出発を前に、参加者へと託す思いを聞いた。(社会部・新垣卓也)

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 ◆島中をさまよう

 ジャングルを逃げ惑っていたさなか、20~30メートル先のサトウキビ畑から突然、人影が現れた。一歩一歩近づいて見ると、明らかに米軍兵だった。「母さん、あれは敵だよ!」

 太平洋戦争時、日本の委任統治領だった旧南洋群島のサイパン島で、日本軍の組織的戦闘が終わった後の1944年7月中旬。当時12歳だった高宮城清さん(87)=北谷町=は、一緒に島中をさまよっていた母に向かって叫んだ。

 後ろを振り返らず、一目散にジャングルへ逃げたが、乳飲み子の弟をおぶっていた母は捕まった。米軍の捕虜になったら辱めを受けて殺される-。そんな「戦前の教え」が頭をよぎり、母と弟の死を覚悟した。

 ◆タッポーチョ山を目指す

 その1週間ほど前、父と8歳下の弟、妹2人を艦砲射撃で失った。家族7人で大木の根元に身を隠したが、艦砲の集中攻撃を受け、妹2人と弟は弾の破片で頭をやられて即死。腹に破片が刺さった父も、翌日の昼には息を引き取った。

 残ったのは「自分一人だけだ」。高宮城さんはそう思い込み、島の北東部から、サイパンで最も高いタッポーチョ山を目指して南下した。

 崖や畑を歩き回り、唯一持っていたかつお節の塊で、なんとか空腹を抑えた。歩き疲れ、ススキの茂みに隠れて眠った時、夢で見たのは家族だんらんの楽しい光景。目が覚めると、誰もいない現実に引き戻され、むなしさだけが募った。

 「戦時中はいろんなことがあったけど、あの時の気持ちはね、今でも言い表せないですよ」。当時を思い出し、高宮城さんは声を詰まらせた。

 ◆母との再会と弟の死

 母と弟が捕虜になって10日ほどたったころ、サイパンの島中を歩き回っていた高宮城清さん(87)は、タッポーチョ山へ逃げ込んでいた。

 山中で出会った県出身者のグループに加わり、約2カ月間、場所を転々としながら避難し続けて米軍の捕虜になった。

 島南西部にあるススッペの収容所に着くと、死んだと思っていた母がいた。捕虜になってから毎日、門の前に立ち、収容されてくる人々の中に高宮城さんの姿を捜していたという。

 でも、弟がいない-。聞くと、収容所内の寺に連れて行かれた。周囲に点在するたくさんの盛り土。その一つに、弟の墓碑があった。「8月12日死亡」。栄養失調だったと聞かされた。

 ◆家族が眠るサイパンへの思い

 1946年2月、沖縄に引き揚げてからしばらく、生き残ったことに罪悪感を持っていた。

 戦後40年近くたったある日、命を落とした父やきょうだいの墓参りをした時のこと。沖縄で造ったその墓に、遺骨は納められていない。「ちゃんと供養できずにすまない」。自責の念が襲い掛かり、草を刈るために用意した鎌が持てなくなることもあった。

 そんな高宮城さんを救ったのは、沖縄戦を生き残った県民の無念や悔しさを歌った「艦砲ぬ喰ぇー残さー」。泥の中から立ち上がり、新しい家族をつくったという意味の歌詞に、自分を重ねた。「私たちがいたから今の沖縄があると思うと、生きていて良かったんだと感じる」

 少年時代を過ごした「心のふるさと」であるサイパン島は、戦を経験した、家族5人の魂が眠る場所。これまで5回ほど慰霊祭に足を運び、消えることのない悲しみを胸に手を合わせてきた。

 今年は股関節を痛め、腎臓も悪くなり、長旅にはドクターストップがかかった。「ぜひ行きたいと思っていたが、体が付いていかなくてね。本当に残念です」と繰り返し、目を伏せる。

 それでも、犠牲になった家族5人を悼む気持ちはずっと変わらない。「南洋へ旅立つ人々に私の祈りを託して、旅の報告を待ちたいと思います」(社会部・新垣卓也)

最終更新:8/25(日) 18:50
沖縄タイムス

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