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サイパンで両親と兄弟姉妹失い死体の上を逃げた 収容所生まれのめいと「何度手を合わても、やり尽くせない」

9/4(水) 10:40配信

沖縄タイムス

 ふるさとへの祈り 南洋戦75年(4)祖堅秀子さん(81)、田中保子さん(73)うるま市

 焼香し、合掌する2人の目から涙がこぼれた。

 8月27日、サイパン島北部の「おきなわの塔」で開かれた慰霊祭。両親ときょうだい4人を失った祖堅(そけん)秀子さん(81)=うるま市=と、サイパンの収容所で生まれためいの田中保子さん(73)=同市=は共に祈りをささげた。

 75年前の戦火を生き延びた命。2人は口をそろえて「この時代まで生かされていることに感謝しています」と語った。

 祖堅さんは戦中、サイパンで最も高いタッポーチョ山や密林の中を逃げ惑った。母は砲弾の破片を心臓に受けて亡くなり、徴兵された次男兄は戦死。水くみに行った三男兄や、安全な壕を見つけて「迎えに行く」と言った父と次女姉、妹も帰らなかった。

 足をけがした長女姉と一緒にいた祖堅さん。スーサイドクリフの崖下では、身を投げた多くの死体を踏んで歩いた。長女姉と「捕虜」になり、ススッペの収容所に移って3週間ほどたったころ。別行動していた兄夫婦が無事に帰ってきた。

 大きなおなかで島を逃げ回った兄の妻。まもなく生まれたのが田中さんだ。戸籍は1946年3月に引き揚げた後に登録した。

 戦後すぐ田中さんの母は栄養失調で亡くなり、一緒に沖縄へ戻った祖堅さんが母親代わり。熱を出したら看病し、学校にも連れて行った。「伯母がいなかったら私はどうなっていたか」。田中さんは常に感謝の気持ちでいる。

 8月29日、2人はススッペの収容所跡に足を運んだ。祖堅さんは記憶をたどり「水は思う存分飲めないし、食べ物も十分になかった」と当時を振り返る。

 「今幸せに暮らしているのは伯母のおかげですね」。収容所での記憶が全くない田中さんは伯母の苦労を改めて思い、声を詰まらせた。サイパンで犠牲になった祖堅さんの家族は自身の親戚でもある。「これが最後になるかもしれないけど安らかにお眠りください」。心の中で祈った。

 慰霊の旅で、家族に会えるのを楽しみにしてきた祖堅さんは、慰霊祭が最後を迎え「何とも言えない悲しさ」を抱える。それでも「まだまだ元気だから、来年も行けるかな」と笑う。

 祭壇には、沖縄から持ってきたサーターアンダギーや天ぷらを供えた。「何度手を合わせに来ても、やり尽くせないですよね」(社会部・新垣卓也)

最終更新:9/4(水) 12:01
沖縄タイムス

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