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秀吉と親族の関係示す書状を確認…おい・秀次の切腹前、「息子を大和国主に」

9/11(水) 12:10配信

読売新聞オンライン

 豊臣秀吉(1537~98年)に関係する書状が新たに2通、東京大史料編纂(へんさん)所(東京都文京区)で確認された。おいの秀次や弟の秀長に関わる書状で、どちらも政権内での秀吉の親族との距離感を知る手がかりになりそうだ。(文化部 清岡央)

 2通の書状は、長州藩毛利家の家臣の家に伝わった後、同編纂所が所蔵してきた江戸時代のものを中心とする文書群の中から、村井祐樹・同編纂所准教授(日本中世史)が確認した。

 このうち1通は、おいで関白を継いだ秀次(1568~95年)を、秀吉が切腹させ一族を処刑したとされる「秀次事件」の直前に、秀次の当時2歳の息子を大和(奈良県)の国主に据えようとしていたことを伝える書状だ。

 秀吉の側近だった木下吉隆が、毛利輝元に宛てて中央の情勢を伝えたもの。「卯月(4月)廿七(にじゅうしち)日」の日付があり、内容から文禄4年(1595年)に書かれたとわかる。大和国主だった秀次の弟、秀保(ひでやす)が死去したのを受けた秀吉の意向として「殿下様の御若君様、二歳にならせられ候(そうろう)を、御主(おんあるじ)になされ候(そうら)へと、昨日仰せ出され候」(秀次の2歳の若君を大和の国主にすると、昨日仰せられました)と記している。

 秀次は、子供がいなかった秀吉の後継者として関白になったが、秀吉と淀君との間に秀頼が生まれると疎んじられ、謀反を企てたとして紀伊(和歌山県)の高野山に追われ、同年7月に切腹させられたとされている。だが近年では、切腹は秀吉に無実を訴えるために秀次が自発的にした、とする説も出ている。

 村井准教授は「秀吉が秀次を死なせようとしていたなら、わずか3か月前に秀次の息子を大和国主にしようとしただろうか。豊臣家にとって数少ない血縁者は貴重な存在だったはず。秀吉が秀次を隠居だけさせるつもりだったという説の有力な傍証となる」と話す。

弟・秀長宛てでは「母者」…母親への親密な表現

 もう1通は、天正12年(1584年)に、秀吉が織田・徳川連合軍と戦った小牧・長久手の戦いの講和直後、人質の取り扱いを弟の秀長に指示した文書だ。

 花押部分は切り取られていたが、和紙の質などを分析したところ、秀吉が1584~86年頃に使っていた、コウゾに米粉を混ぜて白さを出した紙と判明。筆跡も秀吉の右筆(ゆうひつ)(秘書役)と似ていることから、秀吉の書状と判断した。紙質と内容から、85年に書かれたと考えられるという。

 あて先は「美濃守(みののかみ)殿」で、秀長のこと。小牧・長久手の戦いの講和後、織田信長の次男・信雄(のぶかつ)が大坂に来るにあたり、人質として「女房衆」(夫人たち)も来るとし、「そなたの家先(ま)ずかこい候(そうら)いて、置(お)き申すべく候」(お前の家を修築して滞在させておけ)と秀長邸に滞在させるよう命じている。さらに、調度類がなければ一時的に「母者(ははじゃ)の居られ候所へ先ず越(こ)し置かるべく候」と、母親(後の大政所)の元に滞在させるよう指示している。「母者」は母親への親密な呼び方で、秀吉の書状でこうした表現が使われるのは珍しいという。

 当時、大坂城は築城の真っ最中だった。村井准教授は「人質を預かるエリアも未完成だったのだろう。弟に対する気安さからか母親を『母者』と親密に呼んでおり、秀吉が政治的な重要事項も家族内で処理していたのが興味深い」と話す。

 2通の内容は互いに直接関係はないが、いずれも秀吉が政権内で親族との関係を重んじていたことを示唆する。村井准教授は「どちらも身内に対しての発言であり、秀吉の言わば肉声に近い。彼の性格や考えをうかがう上でたいへん参考になる」と話している。

最終更新:9/11(水) 14:25
読売新聞オンライン

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