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【コラム】過去には貧困や戦争を経験…白血病発症も続投を選んだ闘将・ミハイロヴィッチ

9/12(木) 18:46配信

SOCCER KING

 闘う男の生き様をまざまざと見た、そんな瞬間だった。8月25日に行われた2019-20シーズンのセリエA開幕節。ボローニャの指揮官シニシャ・ミハイロヴィッチがサントルソラ病院を一時的に退院し、スタディオ・マルカントニオ・ベンテゴティに向かっているとイタリアの各紙が一斉に報じた。白血病との闘病を“宣言”してからわずか6週間。20時45分にキックオフするヴェローナ戦でベンチに入るというのだ。18時に選手やスタッフが宿泊しているヴェローナのホテルに到着。そして、ヴェローナとの開幕戦にその姿を現した。回復状態にあるとはいえ、やはり痩せこけ、昨シーズンまでの面持ちとは明らかに異なる監督の姿だった。

 誰もがミハイロヴィッチのベンチ入りに驚きを隠せなかった。主将のアンドレア・ポーリは試合前、「信じられなかったよ。みんな驚いていた。改めてもう一度、監督の強さを目にすることとなった」と語るほどだった。一方、ベースボールキャップにポロシャツを纏ったミハイロヴィッチは「選手たちのそばにいると約束しただろう」と、さらっと言ってのけた。試合は、開始13分に10人となった昇格組のヴェローナを相手に苦戦を強いられ、1-1のドローに終わった。しかし、この試合の勝者はミハイロヴィッチ。それは誰の目にも明らかだった。

 ミハイロヴィッチはユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の出身。いわゆる、旧ユーゴとよばれ、6つの国家に分断された“悲劇”の国の生まれだ。彼はセルビア人であるが、生を受けた場所はやがてクロアチアの領土となるヴコヴァルである。バナナ1本を兄弟で分け合うほど貧しかったものの、それでも183センチの恵まれた体躯を持つまでに成長し、プロ選手として名を挙げることとなる。

 19歳になった1988年にはセルビア国内で最古のサッカークラブ、ヴォイヴォディナでプレー。その2年後には名門ツルヴェナ・ズヴェズダの一員に。そして、1992年にはローマに移籍し、サンプドリア、ラツィオ、インテルとイタリアで素晴らしいキャリアを築き上げるのだが、ミハイロヴィッチを語る上で、紛争の話は避けては通れない。1990年代の内戦の一つとして知られるクロアチア紛争は、ミハイロヴィッチの生まれ故郷、ヴコヴァルで1991年8月25日に勃発した。1000人を超える住民が殺害され、5000人以上が強制収容所に入れられたセルビアとの独立戦争は、ヨーロッパでは第二次世界大戦以来最悪の出来事とも言われている。

「起こりうる最悪のものだった。友人同士が殺し合い、家族は引き裂かれた。同胞が倒れるのを目にし、町は崩壊した。私の最も大切な友人が、私の家を破壊したんだ。セルビア人である私の父は、母の兄弟のクロアチア人のおじが、『豚のように殺したがっている』と話していた」。ミハイロヴィッチは凄惨な内戦をこう振り返っている。昨日の親友が、敵兵となり、家族は骨肉の争いを繰り広げることに。あらゆるものが破壊され、自分がどこにいるのかも分からず、道しるべとなるものは、骨組みだけが残った建物、塹壕を築くために積み重ねられた車だった。鳥は飛ばず、野良犬も町から消えた。

 戦禍を逃れるようにイタリアへ移り住むことになるのだが、トラックの運転手だったという父は肺がんを患い、死別する。69歳だった。「戦争中、イタリアに来るように説得したが、セルビアに残ると譲らなくてね。父の孫たちがどのように成長したのか、見せてやりたい。夢を語るとき、チャンピオンズリーグやスクデットを獲得することを思い描きはしない。私の夢は不可能なことだ。父をもう一度抱きしめたい。それが私の夢だ」。6人の子を持つ父でもあるミハイロヴィッチは、亡き父親との叶わぬ夢を今も見続けている。

 インテル時代には、当時ユヴェントスに所属していたスウェーデン代表FWズラタン・イブラヒモヴィッチとの壮絶なバトルを繰り広げたこともあった。そして、彼の名を全世界に轟かせることになった武器が左足から繰り出すFKだ。正確無比なだけでなく、その弾道は時速160キロを計測したこともあったという。

「私と(アンドレア)ピルロはセリエACLでFKから同じ数のゴールを挙げた。だが、彼は私よりも多く試合に出場しているだろ。それに、私のように1試合で3回もFKからネットを揺らした選手が何人いるというんだい?」。直接FKで28得点という数字はピルロ、そしてジュゼッペ・シニョーリと並ぶセリエAの記録だ。けれども、1試合にFKだけでトリプレッタを達成した選手は、セリエAには存在しない。1998年12月13日、ラツィオの一員として臨んだ古巣サンプドリア戦はミハイロヴィッチの独壇場だった。

 インテルで選手としてのキャリアを終え、そのインテルで指導者の道を歩み始める。2006年からロベルト・マンチーニ監督のアシスタントを務めた。正監督となるのはその2年後の2008年。率いたチームはボローニャだった。だが、結果は芳しくなかった。ダニエレ・アッリゴー二監督の後任として、18位のチームを第11節から指揮したが、チームを復調させることはできず、第30節終了後に退任を命じられることとなる。その後も、多くはシーズン途中からの監督登板と解任の繰り返しだった。2018年夏にはスポルティングの監督に就任するが、公式戦を1試合も指揮しないまま、新会長に解任を言い渡される屈辱も味わった。選手時代とは異なり、指導者としての道のりは順風満帆と言えるものではない。

 しかし、昨シーズン途中に任命され、復帰を果たしたボローニャでは、第21節を終えて18位と降格圏に低迷していたチームを劇的に立て直すことに成功。最終的に10位にまで順位を押し上げ、契約更新も勝ち取り、彼はボローニャの英雄となった。

「監督として最も大きな喜びは、選手たちとの関係だ。彼らがどこに行こうとも関係は続く。私がクラブを去るときに選手たちが流してくれた涙。決して欠かすことのないリスペクト。出場機会がそれほどなかった選手からの敬意、といったものを見せてくれた。私は間違いをすることもあるが、私はまっすぐで、誠実であり、そして、男として振る舞うからだ」と語る監督が選手からの人望を得ないわけがないだろう。

 こうして迎えた2年目のシーズン、彼を待ち受けていたのは、白血病との闘いだった。冨安健洋がシント・トロイデンから移籍してわずか4日後だったこともあり、その知らせは日本でも衝撃を持って伝えられた。一時は退任の可能性も強まったが、クラブは全面的に支持を表明し、病魔と闘いながらの続投が決定。貧困、戦争を体験してきた闘将にとっては、病との闘いが、退任するような理由とはならなかった。「細かい守備戦術を学びたい」と守備王国イタリアを選んだ動機を語った冨安は、選手、スタッフ、そしてサポーターからも愛される指揮官から、人としての在り方も学ぶこととなるはずだ。

文=佐藤徳和/Norikazu Sato

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最終更新:9/12(木) 18:46
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