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[インタビュー]「侵略の歴史を消そうとする安倍、潰れるのは時間の問題」

9/13(金) 6:39配信

ハンギョレ新聞

独立運動家・申采浩の次男の妻、イ・ドンナムさん

 「韓国は本当に悪い国です。イ・ワニョン、ソン・ビョンジュンのような親日派の子孫には土地を返してやりながら、独立運動家の子孫にはこれまで小指ほどの土地も返してくれませんでした」
 独立運動家であり、史学者であった丹斎・申采浩(シン・チェホ)先生(1880~1936)の次男の妻イ・ドンナムさん(75)は、娘シン・ジウォンさん(49)、息子シン・サンウォンさん(48)と共に、先月6月、宗教法人禅学院と国家報勲処を相手どり、義父が亡命前に住んでいたソウル市鍾路区(チョンノグ)三清洞(サムチョンドン)の土地を返してほしいと提訴した。申采浩は亡国の4カ月前の1910年4月、三清洞の家を整理して独立運動のために中国へ向かった。住居は日帝初期に国有地になった後、申采浩の殉国3年後の1939年、日本人に所有権が移った。その後も数回所有者が変わり、今は宗教財団の駐車場として使われている。6日、京畿道河南市(ハナムシ)の自宅でイさんに会った。

 イさんは、申采浩の次男スボムさん(1921~1991)と1967年に結婚した。長男(クァンイル)は幼くして亡くなり、三男(ドゥボム)は1942年に栄養失調のため15歳で亡くなったため、結婚当時、夫が申采浩の唯一の子孫だった。申采浩先生の妻でありイさんの義母のパク・チャヘ(1895~1943)氏は末っ子のドゥボムの死後わずか1年後、ひとりで暮らす借間で病死した。パク氏も3・1独立運動当時、朝鮮総督府医院の同僚看護士たちと看友会を結成して万歳運動を行った。その後、中国に渡り北京の燕京大学医預科在学中に申采浩に出会った。

 イさんは今年4月に15年の中国生活を終えて帰国した。「胃がんの宣告を受けて2004年に娘が事業をする中国に行き治療を受けました。中国で病状が好転しましたが、最近病院に行ってみたら状態がよくないそうです」

 イさんは「義父の家を取り戻せば丹斎記念事業の完成」と語った。「土地を取り戻せば奨学財団を作り、義父は言論の先駆けだったから、丹斎言論賞も作らなければ。極貧の独立運動家の子孫はとても多い。お金があれば全部あげてしまいたい」。彼女が提訴した土地は全部で238坪で、時価が「70億ウォン(約6億3000万円)は超えるだろう」という。

 イさんは訴状に、申采浩が『大韓毎日新報』1910年4月19日に出した広告文案を添付した。内容はこうだ。「自分が所有する草屋6間の権利証を知らぬ間に紛失したため広告するので、つまらぬ紙屑として処理されたし。三清洞2統4号、申采浩」。彼女はこの広告を10年以上前に『大韓毎日新報』の影印本で見つけた。「初めて広告を見て、すごく興奮したんです。義父の家という証拠ですからね」

 訴訟には法制処長を務めたイ・ソギョン弁護士が協力してくれているという。「義父は独立有功者礼遇に関する法律の改正で2009年にようやく国籍が取れました。当時、イ弁護士が法制処長で、法解釈などでたいへん助けてくださったんです」。日帝強占期に戸籍登録を拒否した申采浩のような独立運動家たちは、政府樹立以降も国籍が与えられなかった。李承晩(イ・スンマン)政権が日本の戸籍登録者にのみ国籍を与えたからだ。「義父は無国籍なので、夫は死ぬまで『父無しの私生児』として生きてきました」。

 イ氏は、訴訟は象徴的な意味もあるとして、このように述べた。「裁判所は法律の論理ではなく、歴史の論理で判断すべきです。日本がやったことを現在の法律論理で判断せねばならないんですか。日本人が植民統治し、人を苦しめても、土地は奪えませんでした。今の所有権は大韓民国が売りとばしたものです。大韓民国という国がですよ。国が補償すべきです」。申采浩と似たような形で土地所有権が人に渡った独立運動家が多いとも言う。「独立運動家たちはみな財産がありました。当時は農耕社会でした。田んぼ数枚はなければ食べていくことができないじゃないですか」。

 夫のスボム氏はソウルのハンソン商業学校を出て、父親の足跡を訪ねて満洲に行った後、解放2年後の1947年に祖国の地を踏んだ。「1945年に上海を離れ、陸路で2年かかって平壌(ピョンヤン)に到着したそうです。平壌で3年暮らして、1950年12月に南に渡ってきました。父親と親しかった碧初(ピョクチョ)ホン・ミョンヒ先生に北朝鮮に残ることを勧められたんですが、『母が亡くなった時、後始末もできなかった親不孝者だ』と言って南に渡って来たんです」。

 武装独立闘争路線を堅持した申采浩は、外交論中心の李承晩(イ・スンマン)に対して臨時政府時代から非常に批判的だった。李承晩の1918年委任統治の請願をめぐっては「ありもしない国を売り飛ばそうとしている」と強く糾弾した。「金九(キム・グ)先生が1948年の分断を防ぐために訪朝した際、夫を訪ねて来て、その時80ウォンを渡して、李承晩の治下では身分を隠して生きろとおっしゃったそうです。李承晩時代、夫は釜山に行って埠頭の荷役場で働き、クズ拾いもして暮らしました。李承晩の下野後にやっと銀行に就職したんです」。

 申采浩は、朴正熙(パク・チョンヒ)政権1年後の1962年に建国勲章大統領章を授与された。丹斎・申采浩全集発刊の時も朴正煕政権の支援があったが、苦労も多かったという。「全集が出た後、義父が書いた義烈団宣言『朝鮮革命宣言』が、当時の運動家たちの地下組織の教科書になりました。そのせいで、うちの家族はアカ扱いされました。その時、義父の墓参りの帰りに申氏が集まって暮らす村に下りてくると、本当に村中ががらんとしていました。水一杯すらもらえませんでした。幼い息子と娘に墓の近くの白足山(ペクチョクサン)の渓谷の水をすくって飲ませました」。

独立運動家申采浩の次男と67年に結婚 
2009年に義父の国籍回復 
6月に義父の所有地返還求め提訴 
「義父の家を取り戻せば記念事業完成 
勝訴すれば奨学財団、言論賞を作る 
夫は死ぬ日まで父を懐かしむ」 

 夫については、「人が指を痛めても見過ごせない人」と言う。彼女が夫と結ばれたのも、このような性格のおかげだったという。「私がバスケ選手としてソウル市役所の臨時職員だった時でした(金海出身の彼女は、バスケットボール選手としてソウル誠信女子高校を卒業)。胆石の手術のため、金を引き出しに第一銀行へ行ったんですが、ロビーで気絶して倒れました。その時、第一銀行の受託部で働いていた夫が私を支えて漢方医院まで連れて行ってくれました。後で見たら私も知らないうちに治療費まで払っていましてね。その後、偶然バスケットボールの行事で夫に再会し、私が6カ月追いかけて結婚しました」。

 結婚後にはソウルの新設洞(シンソルドン)で洋装店を4年、京畿道楊平(ヤンピョン)の龍門山(ヨンムンサン)近くの白土鉱山を引き取って直接運営したこともあるという。「私は家にばかりいる性格ではありません。夫は74年に銀行を辞めて光復会の総務部長を連続9年務めました。生涯、月給を家に持って帰ってくることはなかったです。義父のことのために。故人(申采浩)の権威が高まれば遺族は犠牲者になります」。こんなことがあった。「74年に忠清北道清原郡(チョンウォングン)ナンソン面クィレ里に父の祠堂を建てる際、私費で470万ウォンを出して用地を買いました。ソウル蚕室(チャムシル)の17坪のマンションを売って。行政のやることは当時も今も同じ。文公部から祠堂の建設費として2700万ウォンの予算をつけたんですが、その年にしなければ事業費がなくなるといわれたので、仕方なく私たちが祠堂用地470坪を買ったんです」。

 夫は父親の申采浩をどう記憶していたのだろうか。「義父は意地っ張りだった、鋭かったと言われますが、夫にはとても優しくて慈愛深い父親でした。夫は8歳の時ちょうど1カ月間父と一緒に中国で生活しました。その1カ月の思い出を抱いて一生を過ごしたんです。死ぬ日まで父を懐かしがっていました。義父が旅順監獄で殉国した時、中国のコイン7個と手帳10冊、本2冊、タバコ入れを残しました。夫がこれをずっと大事にしていたのに、朝鮮戦争で避難する時に平壌の家の棚に残してきてしまったんです。一生それを負い目に生きていました。自分は父を守れなかったって」。

 申采浩は結婚2年後の1922年、妻に「息子に祖国の風習や言葉を学ばせるべきではないか」といって帰国させたという。その後、パク・チャヘ先生はソウルで助産師の仕事をしながら一人で息子を育てた。「夫はとても緻密な人でした。完璧に生きようとしていました。私はそそっかしい性格なので喧嘩はたくさんしました。私がいつも勝ちました。夫が私に、自分の母親に似ていると言ってました」。いったいどんな母親だったのだろう。「夫が13歳の時、父親の名が知りたくて母親に聞いたそうです。すると、母親が冷たい水の入った洗面器や包丁、木枕、ムチに使うハギの茎をひとつかみ持ってきて、夫を木枕の上に立たせて打ったそうです。夫が痛いというと、「それでも知りたいか」と聞いた後、洗面器と包丁を指して、「父の名前を吐いた瞬間、舌を切ってしまうぞ」と言ったそうです。そして名前を教えてくれたんですって。夫がそう言ってました。お母さんは自分が言ったことをしても残る人だって」。

 「不逞鮮人」の妻として日本の警察に監視されながら息子を育てなければならない母親の苦難は、言葉では表せないほどだったという。「日本の警察が、義母に助産師の仕事を任せた家を必ず訪ねていって、めちゃくちゃにしたんです。だから、仕事がありませんでした。夫の言葉では日常的に飢えていたそうです。お腹がすきすぎて、日本人が和信百貨店の裏通りで捨てた果物の皮を拾って食べたりもしたそうです。お母さんがそのことを知って、プライドが傷ついて、夫を何回も叩いたそうです。夫がキョドン小学校1~2年生をだった時には、日本の警察が下校時に待っていてお菓子をくれ、かばんを漁ったそうです。両親が独立運動家だから手紙か何かあるかもしれないと思ったんでしょう。何も見つけられなかったら、使った金を思い出したのかまた殴られたそうです。それからはあまりにも飢えていたので、その日本の警官さえも待ち遠しかったそうです。お菓子だけでも食べられるから」。

 イさんには孫が二人いる。娘と息子が一人ずつ息子をもうけた。検定試験で高校を卒業した孫(シン・ジョンユン)は今年18歳で、歴史に興味があるという。20歳の孫(ナム・ギョンミン)は現在、中国人民大学で中国語を専攻している。

 イさんは、日本の首相・安倍が潰れるのは時間の問題だと考える。「歴史を忘れた民族には未来がないと義父が言っています。安倍は好戦的なうえ、歴史認識が全くない。反省ができません。解放後、日本は歴史をきちんと教えてきませんでした。野蛮人のように東アジアを飲み込んで敗北したじゃないですか。これを恥ずべき歴史だと教えないので、歴史認識があるわけがありません。歴史を忘れたのではなく、完全に消し去った民族です」。安倍よりも「土着倭寇」の方が大きな問題だとも述べた。「土着倭寇」とは、親日派を蔑んで呼ぶ言葉だ。「土着倭寇がよくやってる人たちを裏から攻撃したり、噛みついたり、せびったりと、悪さばっかりするでしょう。はばかりもなく安倍氏を称賛したりして。100年前よりよくなったことなんてありませんよ」

カン・ソンマン先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

最終更新:9/13(金) 6:39
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