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渡辺真理、フリー転身の年に介護生活スタート。父の病室に立ち入った雑誌記者に「ひっそり感謝」した理由

9/14(土) 7:07配信

テレ朝POST

1998年、8年間勤めたTBSを退社し、フリーに転身した渡辺真理さん。退社2カ月後にはTBSの大先輩である久米宏さんがキャスターをつとめる『ニュースステーション』(テレビ朝日系)の2代目サブキャスターに抜てきされ、明るい笑顔で人気を博すが、フリーに転身した年は介護生活の始まりでもあったという。

◆突然、父親が倒れて夜通しの手術が…

真理さんは、祖父が興した会社を継いだ父・半三さんが41歳、元客室乗務員の母・美智子さんが35歳のときに生まれた一人娘。かつて毎年のように製作され、放送されていた時代劇『忠臣蔵』を家族そろって見て、同じところで泣くのが年末の恒例だったと話していたことを思い出す。

大学受験も就職も退職もすべて事後報告だったそうだが、お父様はいつも真理さんの判断を信頼してくれたという。そんなお父様が突然倒れたのは、真理さんがフリーになった年の暮れだったという。

「二人そろって家にいるのが好きな両親でした。若い頃に仕事も遊びもそれぞれ思い切り打ち込んで気が済んだみたいで、とにかく自宅で過ごす時間が好き(笑)。

出会ったきっかけのスキーが最大の趣味で、私が生まれてからも年に1度は私を祖母に預けては志賀高原や海外に2人でポーンと出かけてましたけれど、それ以外の時間はすべて子育てにあてながら楽しんでくれるといった日常でした。

始終ささいなケンカを繰り返すけど相思相愛で、何よりも夫婦という単位を大事にする両親だったので、たまに親子3人そろっての外出はあっても父と母のどちらかを家に残して出かけることは、まずなかったんです。

それが、その日は珍しく母と私だけで外出してしまったんです。大学の先輩に頼まれて舞台のチケットを手配したものの、前日に当の先輩から来られなくなったと連絡がきて、そのまま席を空けることが出来ずに母を誘ってしまった。

虫の知らせなのか、途中で母が疲れて帰りたがったので、失礼に当たるかな…と思いつつ最後の幕間で帰宅したら、父がベッドで横になっていて。

『だいじょうぶ…』と言おうとするろれつが回っていなかったので、すぐに救急車を呼び、脳神経外科に搬送されました。小脳の脳内出血でした。

脳内の出血の広がりから手術できるかどうかギリギリの線だったのですが、院長先生が決断してくださって夜通しで手術した結果、何とか一命を取り留めることができました。ただ、そのあとに肺炎を併発したこともあって、入院生活は1年半続くことになりました」

-『ニュースステーション』と介護で大変だったと思いますが-

「そのとき、介護という意識はなかったんです。執刀医の先生からも『順調に回復されたら、奥様と近所をゆっくり散歩されるくらいになれれば』と言っていただいたけれど、はからずも父の場合、順調ではなかった。

少し安心できた次の日には心配な状態に戻ったり、父の容態を見ながら過ごすなかで、ここからが介護という意識も境界線もなかったんです。あとから振り返ったときに、回復していたら療養と言えるけれど、ままならず療養状態が続いていたら介護になりますものね。

そのときは家に帰りたがる父と、父と離れたことがなく病院に泊まり込むと言い張る母に、どうやったら壊れた日常のなかから少しでもベターな要素を拾い集めて、病室という環境に心地よさを足せるのかだけを考えて毎日、動いていたというか。

だから、計画性なく生きてきたけれど、結果的にフリーになっていたことで番組の勤務時間以外、自由に動けたことは本当にラッキーでした。会社員だったら自分で運転して毎日病院に通いながら働くのは難しかったでしょうから。

会社を辞したその年の暮れに父が倒れるなんて、一人娘にとって人生最大のピンチでしたけれど、タイミングとしてはギリギリ離陸したような感覚で、幸運と思わなきゃと。

でも、どんな生活でもだんだんとリズムが出来ていくもので、『ニュースステーション』の放送後、反省会を終えてから仕事部屋として借りていた都内のマンションで仮眠、午前中に母と私の昼のお弁当を買って病院に向かい父の隣で過ごし、横浜の実家に寄って洗濯などを済ませてから出社というサイクルにも、体は馴染んでいきました。

父のことを打ち明けていた同僚や先輩などごく数人の方は心配してくださいましたけれど、かなり丈夫にできてるんですよね、私。そこは祖父母や両親に感謝しつつ、何よりもこの状況を理解して支えてくださる番組の方々なしには成り立たない生活だったので、今考えてもこんな果報者はないです。

あ、ただ一度だけ雑誌記者の方が急に父の病室に立ち入ってきたことがあって。私、ドスの利いた声で対応したのでしょうね。そのあとどう話したか忘れましたけど、結果として書かれなかったのでホッとしました。

取材するのもされるのも難しいと、つくづく感じます。書かずにいてくれたその時の記者さんにも、ひっそり感謝はしています。同業として」

-お父様は1年半入院してご実家での介護生活に?-

「はい。退院した2000年春、ちょうど介護保険のスタートと重なって自宅介護が始まりました。スタート時だったのでケアマネジャーさんやヘルパーさんをはじめ、関係者全員が手さぐり状態で、介護体制を一から話し合いました。

主治医の先生にはどのくらいの頻度で往診していただくのか、訪問看護やヘルパーさんの曜日や時間帯はいつがいいのか、どんな福祉用具をレンタルするのかなど。同時に、父が療養できる状態に整えるため自宅をバリアフリーにしたり、バタバタと準備して。

でも、家って不思議ですね。私がちょこちょこ洗濯に寄る以外は誰もいなかった1年半を経て、家族が戻る準備を始めたら、ふっと家が息を吹き返したような気配が。

祖父の建てた築60年くらいの木造ですけれど、父もこよなく愛した家で、それから14年間穏やかに療養してくれたのは、嬉しく、ありがたかった…。自分では体も動かせず、しゃべることも出来なかったけれど、5年前に88歳で他界するまで、母と私は父に守られているような感覚でした」

何度もミーティングを重ねて介護体制を整え、周囲にも支えられて変わらず仕事を続けることができたという真理さん。介護離職が大きな問題となっているが、介護保険だけでカバーしきれない場合は自費が発生するため、介護職の方々の手も借りながら何とか仕事を続けていける道を見つけることの重要さを改めて実感したという。

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最終更新:9/15(日) 12:45
テレ朝POST

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